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金曜日更新のおはなし

私の幸福論 第二部

幸せだから笑うのではない、むしろ笑うから幸せなのだ。

アラン『幸福論』より

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こんにちは、泉楓です。私の幸福論 第二部ということで、今回から「世界三大幸福論」と評されるアラン、ラッセル、ヒルティの幸福論を比較検討しながら、幸福について考えを深めていこうと思います。今回は特にアランの幸福論を取り上げます。

 

冒頭の文章はアランの幸福論から引用したものです。私を含め、疑い深い人にとっては、こうも単純に言われると疑いたくなるような「幸福論」なのですが、私はここにも重要な示唆が含まれていると思います。

 

この文章で重要なのは、受動から能動への転換が行われているという点です。「幸せだから笑う」の文では、主語となる「私」は「幸せ」という原因によって笑っています。対して後半の「笑うから幸せ」という文の中では「私」が笑い、その結果として「幸せ」を獲得しています。アランが主張したいことの一つはここによく表れていると思うのです。

 

1. アランの幸福論

 

さて、アランの幸福論においては「主体性」が幸福の一大要因とされているようです。と言ってもアラン自身は「主体性」が大事だとは語っていません。彼は体系化と抽象化を嫌い、努めて具体的に自身の哲学を語るようにしていたと言われています。そのことから、アランの弟子で同国出身の小説家、評論家であるアンドレ・モーロワは、アランを「現代のソクラテス」と評したそうです。

 

アランの幸福論を象徴するエピソードとして、古代マケドニアアレクサンドロス大王と名馬ブケファロスの話があります。ブケファロスは強靭な身体と美しい毛並みを持つ素晴らしい馬でしたが、どんなに乗馬の腕が立つ者が乗っても、酷く暴れて手がつけられず、とんだ荒馬だと皆から見捨てられていました。

 

暴れるブケファロスを見て若きアレクサンドロスは、父に向かってこう言いました。

 

「もし僕が彼を乗りこなすことができたら、彼を僕の馬として買ってください。」

 

父から承諾を得たアレクサンドロスはブケファロスに近寄り、手綱を掴んだかと思うと素早く彼の背中に跨り、手綱を捌いて彼の顔を空に向けました。するとブケファロスは大人しくなり、アレクサンドロスの言うことに従ったと言います。

 

不思議に思った観衆にアレクサンドロスは言いました。「彼は自らの影に怯えて暴れていたのだ。彼が暴れたら彼の影も暴れる。彼は暴れる影と戦っていたのだ。」

 

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幸福の秘訣のひとつ、それは自分の不機嫌に対して無関心でいることだと思う。

 

気分は判断力によるものではない。情念(パッション)によるものである。対して幸福は理性の賜物であり、意志、努力、行為によって実現可能な具体的事象である、ということです。

 

情念のほうが病気より耐えがたい。その理由はたぶんこうだ。情念は、わたしたち自身の性格や思想から全面的に起因しているように見えるが、それとともにどうにも打ち克つことのできない必然性のしるしを帯びているのである。

 

情念に対しては、わたしたちはなす術がない。というのは、わたしが愛するにせよ、憎むにせよ、必ずしも対象が目の前にある必要はないからだ。

 

情念は理性によって操ることのできるものではない。ならば情念に捉われて思い悩むことに時間を費やすよりは、あなたのやるべきことに目を向けて、その事物に集中した方が良いだろう。

 

不安や恐怖には必ず原因があるものだ。その原因は往々にして身近なものである。まずは身体的要因を探ってみよう。周りが暗くて不安だ。お腹が空いてイライラする。身体が不潔で落ち着かない、、、。

 

アランはあくまで具体的、わたしたちの生活に沿った知恵としての幸福論を示してくれます。

 

仕事において幸福感を得るためには、自ら率先して課題を解決し、主体性を持って仕事に向き合うべきだと言います。言われたことをこなすだけの労働は苦痛になり得ます。それに対していくら報酬が支払われようとも人は幸福になることができないということでしょう。

 

生活において幸福感を得るためには、幸せな時間を過ごすことが重要だと言います。幸せな時間は自分を「人生の主役」として捉えることで実現可能だそうです。

 

あなたの趣味はなんでしょうか?音楽を聴く、絵を見る、本を読む。あるいは仕事や家事の合間にテレビを見ることかもしれない。お風呂に浸かりながらYouTubeNetflixで動画を観たり、お菓子を食べながらニンテンドースイッチで流行りのゲームをプレイすることかもしれない。

 

アランはこれらの幸福な時間を、さらに深めるために自らを「主役」に置き換えなさい、と言っています。もう言わなくてもわかりますね。自分でお菓子を作って、歌ったり、絵を描いたり、本を書いたりすれば良いのです。ハードルが高いと感じるかもしれませんが、アランならば「考えるより行動しなさい」と言うのかもしれませんね。

 

最後に人間関係です。自分の人生にどれほど満足していようと、人間関係が最悪では幸福だとは言えないかもしれません。とは言えども、「友人をたくさん作りなさい」と言うわけではありません。自分の隣人との関係が良好でさえあれば良いのです。わたしたちの人生において重要な関係はそんなに多くないはずです。

 

アランは「幸福は義務である」と言います。これは人間関係を考えるにあたって重要な示唆であると思います。

 

幸福というものは、といっても自分のために獲得する幸福のことだが、もっとも美しく、もっとも寛大な捧げものである。

 

悲観的になることは、気分、感傷によるものであり、楽観的になることは、意志によるものだとアランは語ります。そのため彼は「幸福であること」とは「幸福になります」と誓いを立てるようなことだと言うのです。

 

幸福は推論できたり、予見できるようなものではありません。まして他人の幸福とは、あなたがどうにかしようとして作用することのできるものではないとアランは考えるのです。

 

例えば、あなたの隣に病気になって苦しんでいる友人がいるとします。友人は病気によって悲観的になり、あなたに対して不機嫌な態度を示すかもしれません。または私なんてダメだ、私に関わらないでとあなたを拒否しようとするかもしれません。

 

アランはそこで、同情したり憐れんだりすることは良くないと言っています。あなたはあくまで楽観的に、明るく振る舞った方が良いのだと。友人にとって本当に必要なのは、憐れみではなく楽観的な意志の力なのだと。

 

(病気の友人に対して)…無関心であれというのではない。そうではなくて、快活な友情を示すことだ。誰も、人に憐みを引き起こさせることを好まない。もし自分がいても、健康な人間のよろこびを消し去りはしないということがわかれば、彼はたちまち立ち直り、元気が出る。信頼こそ素晴らしい妙薬である。

 

アランは礼節の重要性についても言及しています。個人的な話ですが「親しき仲にも礼儀あり」という言葉が大好きです。その本質をアランも語っているように感じました。

 

「礼節を重んじよ」と言っても、堅苦しい伝統的なマナーを守りなさいといわけではありません。自分が人生における主人公であるように、他者についても、その人の人生の主人公であるということを知りなさい、ということだと私は解釈しています。

 

礼節の本質は「行動によって情念を操る」ということだと思います。先程も述べたとおり、情念は理性によってコントロールできるものではありません。ならば行動によってコントロールするしかない。妬みや僻みは他者を尊重する心があれば生じ難いはずです。そのことは頭で理解していても、自分より幸福そうな人を見ると心は揺らいでしまうものです。相手が嫌な人で、自慢をしてきたり、マウントを取ってくる場合は尚更でしょう。なのでまずは行動する。相手に礼節を尽くすことで胸に渦巻く情念をコントロールするのです。

 

今回はここまで。次回はラッセルの幸福論を取り上げます。お楽しみに!

 

人間関係のなかで相手に期待しうる唯一のことは、それはお互いの本性を認め、相手が自分自身であり続けるのを求めることだけである。

 

その人があるがままの姿であるのを望むこと、それが真の愛である。

 

アラン『幸福論』より

私の幸福論 第一部

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幸福とは何か。どこにあるのか。どこからくるのか。快楽とは違うのか。幸福感ではなく、必然性と普遍性のある幸福はあるのか。

 

アリストテレスは『ニコマコス倫理学』において、幸福こそが誰もが求める最高目標であると語っています。それは幸福が他の何物のための手段にはならないということです。人生の目標は幸福になることであり、幸福になることによって何かを得たり、何かを実現するのではなく、幸福のために私たちは生きているのだ。

 

日本の哲学者である三木清は、幸福について次のように語りました。

 

今日の人間は幸福について殆ど考へないやうである。試みに近年現はれた倫理學書、とりわけ我が國で書かれた倫理の本を開いて見たまへ。只の一個所も幸福の問題を取扱つてゐない書物を發見することは諸君にとつて甚だ容易であらう。

 

……(中略)……

 

過去のすべての時代においてつねに幸福が倫理の中心問題であつたといふことである。ギリシアの古典的な倫理學がさうであつたし、ストアの嚴肅主義の如きも幸福のために節欲を説いたのであり、キリスト教においても、アウグスティヌスパスカルなどは、人間はどこまでも幸福を求めるといふ事實を根本として彼等の宗教論や倫理學を出立したのである。幸福について考へないことは今日の人間の特徴である。現代における倫理の混亂は種々に論じられてゐるが、倫理の本から幸福論が喪失したといふことはこの混亂を代表する事實である。新たに幸福論が設定されるまでは倫理の混亂は救はれないであらう。

 

三木清 人生論ノート「幸福について」より

出典 青空文庫https://www.aozora.gr.jp/cards/000218/files/46845_29569.html

 

人生の目的とは何か?と問われた時に、現代の人々が答えに困る様子は容易に想像がつきます。仕事、家族、趣味、恋愛など、それらしい答えを一応持ち合わせる人はいるでしょう。しかし、それらが私たちを裏切ったとき、私たちは人生に絶望してしまうことになります。

 

「絶対の真理などない。」

 

私は相対主義者だと名乗る人がいれば、そのように言い放つかもしれません。ならば私たちの人生の目的とは何なのでしょう。人生に目的や意味がないのだとしたら、私たちはこの苦悩に満ちた人生をどのように乗り越えたらいいのでしょう。苦痛や困難からひたすら目を逸らし、快楽に取り囲まれ享楽的に生きる。それでも良いのかもしれない。

 

しかしみなさんは、それで納得できるでしょうか?

 

死の恐怖や、どうしようもなく目の端に映る悪魔の影に怯えていては、せっかくの快楽も歪んでしまう。もしくは快楽が実は悪魔であって、私たちは悪魔に騙されながらたった一度きりの人生を生きている。多くの疑い深い人々にとって手段に過ぎない数多の快楽は陳腐に見えてしまうものです。虚無や絶望を抱えながら生きていくには、私たちは弱すぎる。

 

今日は人生の目的は幸福だということを前提に、「私の幸福論」を構築していきたいと思っています。

 

申し遅れましたが、筆者は泉楓が務めさせていただきます。それでは本編です。

 

1. 人生の最高目的は幸福である。

 

前書きにも書いた通り、私は人生の目的は幸福だと仮定しました。仮定なので根拠は必要ないかもしれませんが、これから命題のようにこの文章を扱うため、いくつか根拠を示していきたいと思います。

 

  • 幸福以外、人生の目的になり得ない。

 

先程、人生の目的としての例で、仕事、家族、趣味、恋愛など、現世的で人生の目的として妥当だと思われる事柄を列挙しました。しかしこれらは現世的であるが故に、人生の最高目的にはなり得ません。現世的であるということは、万人に共通で必ず訪れる死によってそれらは失われてしまいます。人生の最高目的であるためには、アリストテレスが語るとおり、何物の手段にもならないということが条件になります。言い換えるならば、仕事や家族、趣味や恋愛のような現世的幸福の種々は、人生の幸福のための手段である。こちらの方が妥当だと思われます。人生を生まれてから死ぬまでの全ての事柄だと考えるのであれば、その最高目的は現世的であってはならないのです。

 

死によって人生が終わってしまうのなら(転生や魂の不滅がないのだとしたら)、最高目的である幸福でさえも、意味のないものだと感じるかもしれません。現世を善く生きることで来世を肯定したり、最高目的を幸福ではなく、その逆説である「苦しみから逃れること」と考えた方が幸福になれそうな気がします。しかし、私はあくまで現世肯定と幸福自体を目的とすることを前提に考えを進めたいと思っています。

 

2. 幸福とはどういうことか。

 

さて、人生の最高目的を幸福だとしたところで、幸福とは何なのか?どういう状態か?という疑問が生まれます。

 

その疑問を考えていくために、過去人類が幸福をどのように捉えていたのか振り返ってみたいと思います。

 

最近の幸福論のトレンドといえば「功利主義」ですね。「最大多数の最大幸福」という言葉で有名です。哲学をよく知らないという方でもこの言葉は聞いたことがあるのではないでしょうか。

 

功利主義とは、イギリスの哲学者ベンサムが初めに唱えたものです。個人の幸福は快が得られ、苦痛が欠如したものだと考え、個々人の快の度合いと苦痛の度合いの総和を「最大幸福」として、「最大多数の最大幸福」の実現を社会の基盤にしようという考え方です。

 

功利主義に向けられる批判として、「自由論」で有名なイギリスの哲学者ジョン・スチュアート・ミルのものがよく知られています。ミルはベンサム功利主義には質的な観点が抜けていると指摘し、快や苦痛を量として測るだけでなく、人によって快楽の感じ方、質が変わることに留意しなければならないと批判しました。

 

功利主義で語られる「幸福」は快楽と苦痛の総和であり、その言説は現世的な幸福にしか及んでいません。それでは人生の最高目的たる幸福の定義としては心許ない気がします。

 

これは思考実験ですが、人類の技術が進歩して脳に電極を刺し、微弱な電気信号を送ることで快楽を操ることができたら?功利主義的に考えれば、みんなこの機械に操られることが幸福だということになります。量的で現世的な快楽は最高目的としてはふさわしくないのかもしれません。

 

質的に幸福を考えるとき、キーワードとなる言葉は「能動性」だと私は考えています。同じ幸福であっても能動的であるか受動的であるかで、私たちの受け取り方は違っていると感じるからです。他者から恩恵を受けても、自ら掴んだ報酬と比すると霞んでしまうものです。

 

質的に良い幸福に欠点があるとすれば、より良い幸福を得たいと考えて満足しなくなるということです。これを克服するには他者と比較しないことが必要です。動機に私を据えて、私が結果を得る。他者をどうにかするのではなく、幸福を最高目的として私の幸福を探究する。

 

スイスの法学者カール・ヒルティは著書『幸福論』において次のように語っています。

 

幸福の第一の必要欠くべからざる条件は、倫理的世界秩序に対する正しい信仰である。

 

人生の幸福は、困難が少ない、あるいはまったくないということにあるのではなく、それらをすべてりっぱに克服することにあるのである。

 

「倫理的世界秩序に対する正しい信仰」とは、「人間の行動の規範となるような幸福観を持ち、その規範に従うことで世界の秩序が保たれるのだと信じること」だと私は解釈しました。

 

幸福は、単に快楽や苦痛の量によって計算されうるようなものではなく、また、私たちが主体的になって幸福を保とうとすることが必要なのです。

 

  • 理性的幸福と感性的幸福

 

世界三大幸福論のひとつ、アランの『幸福論』では、非常に具体的でわかりやすい幸福観が著されています。

 

幸福の秘訣のひとつ、それは自分の不機嫌に対して無関心であることだと思う。

 

気分は判断力によるものではない。

 

幸せだから笑うのではない。笑うから幸せなのだ。

 

情念のほうが病気よりも耐えがたい。その理由はおそらくこうだ。情念は私たち自身の性格や思想から全面的に起因しているように見えるが、それとともに、どうにも打ち克つことのできない必然性のしるしを帯びているのである。

 

情念に対しては、私たちはなす術がない。というのは、私が愛するにせよ、憎むにせよ、必ずしも対象が目の前にある必要はないからだ。

 

アランは幸福を、私たちが不快に感じる身体的要因を排除することによって実現に近づき得るものだと捉えています。簡潔に言えば、ゴキゲンな生き方を志向することで、人生をポジティブにデザインしていこうということでしょうか。抽象的な理論の体系化を嫌ったというアラン。具体的であるが故に本質に肉薄した幸福論であると思います。

 

しかし、理性が求める幸福は完全性を伴ったものです。人生の最高目的としての幸福には普遍性がなければいけない。理性はどうしてもこのように考えるものです。感性的幸福と理性的幸福。その両立が達成されたとき、私は真に幸福を理解したことになるのだと信じています。

 

今回はここまでにします!

 

次回はアランの『幸福論』の考察から始めて、幸福についての理解を深めていきましょう!

 

ではまた!

 

よりよく生きる道を探し続けることが、最高の人生を生きることだ。

 

 

我々が皆自分の不幸を持ち寄って並べ、それを平等に分けようとしたら、ほとんどの人が今自分が受けている不幸の方がいいと言って立ち去るであろう。

 

ソクラテス(紀元前469年頃 - 紀元前399年)古代ギリシアの哲学者

陽だまりの地縛霊

 

ネットで名言を調べていると、次のような文章がゲーテの名言として紹介されていました。

 

自分自身を信じてみるだけでいい。
きっと、生きる道が見えてくる。

 

ひとを前向きにしてくれる良い言葉だと思い、出典を調べてみると、もともとの文章はゲーテの戯曲「ファウスト」でメフィストフェレスが発した台詞であることがわかりました。

 

Sobald du dir vertraust, sobald weißt du zu leben. 

 

「自分を信じることができれば、すぐに生き方がわかるよ。」というような意味でしょうか。名言として紹介されていた訳も、間違いではないような気がします。

 

ちなみに「舞姫」などで有名な森鷗外はこれを「万事わたしにお任せになさると、直に調子が分かります。」

 

日本のドイツ文学者でエッセイストの池内紀は「自信がつけば態度も変わってくる。」と訳しています。

 

同じ文章をドイツ語から日本語へ訳すという作業だけでも、様々な違いが現れてくる。もちろん意訳や逐語訳であることの違いによる差異もありますが、文学作品の翻訳ということもあって、翻訳者の多様な解釈が伺えて興味深いですね。

 

こんにちは、泉楓です。今回は雑記です。特に書く内容は決まっていません。エッセイストになったような気持ちで、軽く書いていきます。

 

先日、動物園へ行く機会がありまして、動物を見て参りました。生物に興味が湧いていた時期なので大変楽しめました。

 

特に印象に残っているのはオランウータン。ハンモックに身を委ねた姿を直近で観察することができました。私の前に見ていた3歳ほどの女の子は「怖〜い」と泣きながら去って行きました。たしかに怖い(笑)。身体が大きい上に、人が近寄って来ても全く動じないその威風堂々たる態度。とても力が強いらしいので、私も隔てがなければ逃げ出しています。顔を近づけて観察していると、こちらに顔を向けてきました。目があった。好奇の目で見ている私をみると、彼は目を伏せて右手で顎を摩りました。

 

「人間みたい!!!」

 

さすが「orang(人)hutan(森)」と呼ばれるだけあるなぁ。私は満足してその場を去りました。

 

*後でわかりましたが、インドネシアの沿岸部に住む人々が奥地に住む人々のことを「オランウータン」と呼んでいたのをヨーロッパの人が勘違いしたそうです。現地には「orang〜」という名のUMAが複数いるらしい。

 

 

ダーウィンは「進化論」のなかで、「獲得形質の遺伝」を肯定的に語っていますが、現在の遺伝学では否定されているそうです。

 

「獲得形質の遺伝」とは、生物が後天的に獲得した身体的形式が遺伝することを指します。ダーウィンは「進化論」に対する反論として、「デザイン論」のような反論を想定していました。例えば機械仕掛けの時計が道端に落ちていたとして、それが自然発生的に存在していると考える人は少ないと思います。誰かがそれをデザインしたから時計はいまその場に存在している。誰しもそう考えるでしょう。昔から、生物も例外ではなく、超越的な知性によってデザインされたものだという考え方をする人はたくさんいました。モノを見るために目がある。音を聞くために耳がある。まさかそれらが自然に発生したものだとは考えない。ダーウィンは生存競争や自然淘汰のなかで、生物がより優れた形態を獲得し、それが親から子へ引き継がれていくことで「進化」は起こるのだと考え、それまでのデザイン論的な考え方を踏破したのでした。

 

ところが、現代では「エピジェネティクス」という言葉で知られている研究分野があります。「獲得形質の遺伝」は完全に否定されたわけではなく、生物の世界には後天的な性質を次の世代へ伝えているような例が散見されるそうです。

 

私たち人間は、常により良く在ろうとする生物だと思います。それゆえに憂鬱に陥ったり、絶望感を味わう人も少なくありません。カントは理性は完全性を求めるものとし、理性が際限なく因果を解明しようとすることを指摘しました。はたして人間は理性のみによって、この世界の認識を完全なものへと進化させることが可能なのでしょうか。

 

科学は確かに日々進歩しています。言い換えれば、人類は日々、世界への認識を深めているとも言えます。私たちは個人として、この認識についていくことが可能なのか。そもそも「正しい認識」は私たち個人にとって必要なのだろうか。私は最近よく「理性の限界」について考えを巡らせます。

 

人間の理性は「神」のように振る舞うこともあれば、驚くような悲劇を招く「悪魔」にもなり得ます。理性が鈍ると理解できないような人間の本能が剥き出しになることも、みなさんの経験則として理解されていると思います。

 

学問に対する嫌悪感を抱いている人もいるかもしれません。理知的な論理体系を前にして自分には関係がないと考える人もいるかもしれません。一般的に知識とは必要ならば取り入れて、必要がなくなればすぐに忘れてしまうもの。日常生活に則した知識ならば重宝されても、日常生活に関係しないような知識を持っていれば、変な目で見られてしまうことだってあるでしょう。

 

私は人間個人の幸福にとって、「正しい世界認識」は必要だと考えています。(幸福についての記事もいずれ書きたいですね。)ですから、いかなる知識、日常生活に全く関係がないように思える知識であっても、私個人の幸福にとって欠くことのできないピースなのです。

 

私は幼い頃から学問に興味関心を抱いてきましたが、勉強が好きではありませんでした。勉強は"しなければならない"もので、苦痛を伴うものだったからです。押し付けられればやる気を損ない、勉強から逃避するために娯楽に逃げたことが何度もあります。

 

人間の理性は幼い頃からその萌芽を見せているのです。あらゆるものに興味を抱き、見るもの全てが新鮮な驚きと輝きに満ちている。よく「大人は目から輝きを失っている」と言われたりしますが、それはあらゆる物事に「新鮮さ」を感じないからだと私は思っています。

 

「世界の認識」は本質的に多様性と無限性を包含していると私は考えます。ゆえに子どものような曇りのない目で世界を見ると輝いて見えるのです。大人になると世界を分かってしまった(認識し尽くした)ように勘違いしてしまう。つまり世界は輝きを失うのです。

 

生物を学ぶ中で、私が生物から受け取った示唆があります。宇宙及び地球、そして生命は全て見えない糸で繋がっているということ。その糸は複雑に絡み合い、複雑に絡み合ったなかに秩序を形成させる役割を生物が担っているということ。生物の能力とは自然の能力であり、我々生命を持つものは皆、固有の能力を持ち、それがかけがえのないものであること。

 

進化は差異から生まれます。周りと違う、個人として存在の不安を感じるということは、生物にとって重要なことなのです。孤独感は幻想に過ぎません。生命はひとりで成り立つものではないからです。私たちが取り除こうとしている不幸や苦痛でさえ、全く無意味で無価値だということは、ほぼあり得ないと言っても良いのだと思います。

 

先日、陽だまりかと思って近づいてみると金木犀が散った跡でした。半日後に再度その場所に行くと、風に散って陽だまりはなくなっていました。

 

私はそれを幽霊みたいだなと思いました。ある場所、ある時間に囚われて身動きが取れないでいる地縛霊。私は風に吹かれてちりぢりになった陽だまりに親しみを込めて手を合わせました。

 

本日はここまで!ご静聴、ありがとうございました〜😊

 

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生物の進化について

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小さい頃から水族館や動物園に行くのが大好きでした。こんにちは、泉楓です。今回は「生物の進化」がテーマということで、まずは身近な動物から注目してみたいと思います。

 

身近と言っても僕が話したいのは現代に生きている動物の話。「キリンの首はどうして長いか?」という問いはあまりにポピュラーですが、純粋な子どもの素朴な疑問の前で、私たち大人はその威厳を保つことができるでしょうか。

 

「高いところの植物の葉を食べるためだよ!」

 

……残念!これでは無垢な子どもに誤った認識を与えてしまうことになります。しかしながら、この答えは"目的論"的な捉え方と言え、長きにわたり人類の一般常識として働いていた考え方です。間違えてしまうのも仕方のないことかもしれません。

 

私たちの感覚としては、生物が何かの目的に従って存在していると考えることは自然な運びかと思います。実際、キリンの長い首は「高いところの植物の葉を食べること」に役立っているので、完全に誤解とも言い切れません。ただ少し本質とはズレているのです。

 

初めから「首の長いキリンがいた」のではありません。キリンの仲間の中から首の長い個体が生じ、悠久の時を経て現代の「キリン」という種には「首が長い」という特徴が残っている、というのが正しい認識だと思います。

 

「首が長い方が生存競争で有利だった」という言い方もありますが、私の認識としては正しくありません。前回の記事でも言及した「ミッシングリンク(失われた鎖)」の問題はここに表れてきます。ある集団(群)の中で生存競争があり、生き残ったものが進化を繋いでいく、という捉え方では説明のできない事実がたくさんあります。それに私の直感としては、「極端な特徴を持った生物が緩やかな変化を経てきた結果だ」とするのは少し無茶だという感じがします。

 

生物の進化については、未だに解らない事柄がたくさんあります。数ある仮説のなかで「生物の進化には『環境的要因』が大いに関わっているのではないか」という説が私としても納得のいくものだと思いました。

 

「私たちの身体はDNA(デオキシリボ核酸)によって遺伝情報を伝達している」という話は聞いたことがあるでしょう。そんな有名な二重らせん構造の中に、"生命の設計図"が記憶されています。驚くことにその"レシピ"の内容は既に知られている生物でほぼ共通しており、ヒトの遺伝子はその98%がチンパンジーと、85%がネズミと、60%がニワトリと、50%以上が多くの細菌と同じだと分かっているそうです。

 

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「この数字は何を示しているか」というと、既知の生物は皆、共通の祖先を持っているという事実でしょう。実際、生物の身体を構成するアミノ酸は20種類だと言われていますが、天然のアミノ酸は約500種類ほど見つかっています。それほどまでに生物の身体には共通する要素が多いのです。

 

「進化」とはこの共通のなかに生じた僅かな差異が表出したものだと言えるでしょう。では、その差異はどのようにして生じたか。DNAがmRNA(メッセンジャーRNA)に塩基配列を「転写」し、それぞれの細胞で「コード」を読みとってタンパク質を合成するという過程で、「バグ」が発生するのかもしれない。また、放射線によってDNAが傷付けられ突然変異が起こったという説も一定の信憑性を持って語られているらしい……。

 

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上の図は大陸の分裂、衝突を考慮した進化の模式図です。大陸の分裂の際には大地の裂け目から放射線が放出し、変異体を生む。大陸の衝突では、これまで交わることのなかった個体同士が交配し、遺伝子の差異を増幅する。それぞれ「茎進化」「冠進化」と呼ばれているらしく「ミッシングリンク」の問題を解決するための考え方のひとつとして、私は面白い考え方だなと思います。

 

  • 最初の生命

 

前述した文章の中に「共通の祖先」という言葉が出てきました。細菌と私たち人類の間に「共通の祖先」がいるだなんて到底理解の及ばないことではありますが、次はそんな不思議な世界(なのに現実)について考えてみます。

 

遥か昔にビッグバンが起こり、その塵が固まって出来たというこの地球。彼が産まれたての頃(46億年前)には大陸がなく、雲に覆われている今とはだいぶ印象の違った惑星だったと言います。45億5000万年前には小惑星の衝突で月ができ、その後も地表には大量の微惑星が衝突していたと言われています。衝突によって、炭素、水素、酸素、窒素などの軽い元素が持ち込まれ、地球には大気と海洋が生まれました。

 

惑星の衝突跡にはクレーターが生まれ、そこに水が溜まり海洋となります。地球内部は常に高温で流動しており、特に高温の中心部マントルからは、たびたび上昇流が発生しました。マントル上昇流は地殻を押し上げ、地表のあちこちに火山を作ります。特に海洋地殻を押し上げたマントル上昇流は海水によって冷やされ、一帯に薄い玄武岩質の地殻を作りました。押し上げられた海洋地殻は滑るようにして移動し、より密度の低い大陸地殻にぶつかると下へ潜り込むように移動を続けます。このような地殻の動きを「プレートテクトニクス」と言います。

 

さて、我々の祖先である原始的生命体は、このような環境でどのように生まれたのか。

 

プレートテクトニクスによって、地表近くには「地殻の裂け目」のような空間が生じました。海洋近くのそのような空間には水が流れ込み、いわゆる「間欠泉」と呼ばれるものを形成します。このような環境下で放射性物質からエネルギーを得て化学反応を起こし、「生命構成単位」と呼ばれる「アミノ酸、リン酸、核酸塩基」が生み出されたと言われています。間欠泉によって水温が上昇し過ぎなかったこと、地表と地下で酸化・還元のサイクルが生まれたこと、、。様々な要素が重なって生命の素となる物質は生み出されました。

 

約41億年前、月の潮汐力は現在よりもはるかに大きく、地表の海岸には理想的な乾湿サイクルが実現されていたと言います。湿った状態と乾いた状態が繰り返される環境下で「生命構成単位」は重合反応を起こし、アミノ酸が複数結合した「オリゴペプチド(触媒活性をもつ、タンパク質様原始物質)」が発生しました。

 

オリゴペプチドがさらに複合し、より複雑な「原始 RNA」へ、原始RNAがさらに複合して、自己複製作用を持つ「リボザイム」として振る舞い始めました。

 

リボザイムが脂質の膜に取り込まれ、外界との境目を持つことで初めて「生物」と呼べる存在となります。この最も原始的な生命体は「原核生物」と呼ばれるようです。

 

 

原核生物は絶滅と繁栄を繰り返す中で、選別された20種類のアミノ酸を自らの組織、エネルギーとして利用するようになったと言われます。この「20種類のアミノ酸を利用した原核生物」こそ、我々の「共通の祖先」だと言えるでしょう。

 

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さて、このように生命の誕生について淡々と語ってきましたが、これは非常に稀な出来事だということは言わずもがなかと思います。未だ地球外に「生命体」と呼べる存在は発見されていません。

 

"生命体はどれだけ稀有な存在であるか"

 

それは著名な物理学者、エルヴィン・シュレディンガーも注目した事実なのです。彼は1943年2月、トリニティーカレッジ・ダブリンで行われた『生命とは何か』という講演でそのことを語っています。

 

彼はダーウィンの理論に対する疑問から「生命とは何か」という問題を提起し、生命を量子物理学の理論で考察してみる必要があると語りました。自然状態から生命が生まれるということは、謂わば「無秩序から秩序」を生み出すということに他ならないと考えたのです。

 

「無秩序から秩序を生み出す」というのは、現代物理学理論のうちの「熱力学第二法則」に背く出来事です。ならば生物の世界には、物理学が未だ到達していない新しい理論、新しい概念があるのではないか。「マクスウェルの悪魔」は生物の世界に息を潜めているのかもしれない!シュレディンガーはこのようなことを示唆しています。

 

現代において、数学や物理学によってあらゆる現象は理論化され、解き明かされていくのか、というように思っている方は少なくないのではないでしょうか。しかしまだまだ謎はたくさんあります。今回はその一例を「生物の進化」という大きな謎を孕んだテーマに沿って、皆さまに紹介できたかと思います。なんとなく息苦しいこの世の中、案外自由に息を吸える空白地帯は近くに存在しているのかもしれませんね。

 

今回はここまで!またね!

 

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『映画 ドラえもん のび太の新恐竜』Ⅱ

 

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画像引用元:(c)藤子プロ・小学館テレビ朝日・シンエイ・ADK 2020

 

こんにちは、泉楓です。今回は前回の続きですね。『映画 ドラえもん のび太の新恐竜』の魅力について語っていきます。この映画は大人の方にオススメしたい!という理由を3つ挙げていました。まずはそこから振り返りましょう。

 

理由1 懐かしさ 定番の展開とお約束 

理由2 アニメーション 動きで表現する生命の羽ばたき

理由3 テーマ性 物語が深めるメッセージ

 

理由1については、前回の記事に示したとおりです。劇中にはドラえもんシリーズにおける鉄板ネタが存分に使われています。しかし、それが観ている人のほとんどにしっかり伝わっているであろうという事実は『ドラえもん』という作品の絶大な人気度を示していますよね。すごいです。

 

今日は理由2から話し始めていきます。それでは本編です。

 

 

理由2 アニメーション 動きで表現する生命の羽ばたき

 

既にご覧になった方なら共感いただけると思いますが、本作品の大きな魅力のひとつは、素晴らしいアニメーションによるOPとEDです。

 

本作品に出てくる恐竜は3DCGによるアニメーションと従来の二次元アニメーションで書き分けられています。二次元アニメーションで描かれる恐竜は、デフォルメされた可愛らしい見た目(キューとミューそのほか、キャラクターとして役割を持った恐竜が対象)であるのに対して、3DCGで描かれる恐竜はリアル志向の迫力ある絵面に仕上がっていました。

 

本作品OPでは、その3DCGを存分に使用した「生命の進化」をテーマとする短いアニメーションで、短いながらも高密度に情報が詰まったハイクオリティなものでした。序盤からこのOPで観客の心をグッと掴んできます。私も鳥肌が立ちました。ずるい。

 

OPはその作品の軸を提示するための大切な要素だとも言えます。水のなかに浮いている泡から始まり、幾度も絶滅と進化を繰り返して巨大な恐竜へと飛躍していく。まさに本作品が何を伝えたいのかをギュッと詰め込んだ名OPだと言えるのではないでしょうか。

 

続いてED。こちらは二次元アニメーションで描かれています。曲と合わせてスタッフロールが流れていく定番の型ではありますが、ここでもメッセージ性のあるアニメーションが観客を魅せてくれます。

 

OPと同様に泡から始まる生命のリレーが、画面左端を駆けている生物のシルエットによって繋がれていくというものです。私が注目したのはこのアニメーションの後半部分。キューの仲間らしき生物のシルエットが鳥類のシルエットに変化し、さらに猿へ、さらにのび太へ、とバトンを繋いでいきます。のび太が走っていると画面左端からジャイアンスネ夫、しずかちゃんが現れて並走するようになり、最後は画面右端からドラえもんが現れ、みんなで画面中央に集まり観客に向かって手を振る。映画はこの後に予告を挿んで終わりです。

 

演劇では観客から見て舞台左側が下手、右端が上手と呼ばれます。基本的に物語は下手から上手へと展開します。本作品のEDは下手側が過去、上手側が未来を表しているものだと思われます。とすると、ラストで上手側からドラえもんが現れ、進化のバトンを繋いできたのび太たちを迎えるという構図は何か製作者の意図が感じられますよね。映画の締めくくりとして、とても考えられたEDかなと私は思いました。

 

本作品全編を通してですが、「飛躍」というキーワードが根底に流れているなという感じを受けました。実際キューとミューが飛ぶシーンは、繰り返して見ることができます。

 

本作品は、キューが上手く飛べないということと、生命の進化には比喩的な意味で「飛躍」が重要な役割を担っているということを上手く組み合わせて、私たち観客に多様な問題を提起することに成功しているという点で、私の心に強く残る作品となりました。

 

おっと、勢い余って理由の3つ目に頭を突っ込んでしまうところでした。一旦区切って次に進みます。

 

理由3 テーマ性 物語が深めるメッセージ

 

ここからは、私が気になった場面を取り上げながら本作品のテーマについてさらに深掘りしていきたいと思います。

 

川村は『のび太の恐竜』と同じく卵を拾ってきて孵化させる展開はわざとであり、双子が生まれてくる瞬間からパラレルワールドだとしている。

 

……(中略)……

 

「恐竜」に加え取り上げられたテーマは「進化」と「ダイバーシティ(多様性)」である。川村は本作の発表時「多様性が叫ばれる中、それが綺麗事ではなく、人類の進化への歩みであることを語りたい」とコメントしていた。また、別のインタビューでは多様性が「弱者と共存しましょう」という話になりがちなことに違和感を覚えたこと、それが綺麗事でなく生物がサバイブするための必要条件だということをエンターテインメントとして描いたと語っている。

 

今井も他者との違いが進化の本質とし、そこに「人と人の違いをプラスに考えよう」といったダイバーシティの要素を重ねることで、恐竜を通しそういった部分を描けるのではないかと気付いたという。

引用元:「ドラえもん のび太の新恐竜」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2020年10月5日 (月)14:04 UTC、URL:https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ドラえもん_のび太の新恐竜

 

上に引用した文章からわかるとおり、「進化」「多様性」そして「弱さ」は本作品において重要なテーマです。

 

個人的に気になったシーンとしては、冒頭でのび太が「恐竜の卵らしき石」をみつけて大はしゃぎしながら帰宅するシーン。のび太が慌てるあまり足がもつれて、卵を放り投げながら豪快に転ぶという場面があります。

 

一見すると「のび太はドジだなぁ」的な笑えるシーンにも思えますが、私が気になったのはその後です。結構な高さから落下した卵の化石、カメラは地面にぶつかりコロコロと転がる石に寄っていきます。この場面が少し長すぎる気がしました。まるで何か言いたげだと感じた私は、ある妄想を膨らませます……。

 

生まれつき身体が小さく、羽毛も未熟なキュー。このことは前回の記事にも書いたのですが、キューの身体に弱さをもたらしたのはのび太ではないか?と私は思ったのです。

 

しかしながら、のび太が卵を落としたのは化石の時点です。そのあと『タイムふろしき』を使って卵を生きた状態(生きていた時代?)に戻します。ドラえもんの道具によって時間と空間を往来しすぎて色々矛盾があるような気もしますが……。

 

タイムパラドックスを解決するには並行世界(パラレルワールド)の概念を持ち込めば良いのだ!……まあ川村元気さんも「双子が生まれてくる瞬間からパラレルワールド」だと発言しているようなので、矛盾はないのかもしれません。

 

もしも、キューの弱さがのび太の過失によるものだとしたら……。物語はさらに違った表情を帯びるものになりますね。

 

もうひとつ気になった場面があります。この場面は明らかに親世代向けのメッセージを含んでいるのでしょう。キューとミューを元々いた時代に帰そうかと葛藤するのび太のび太の胸中には親ならではの悩みが生じていました。

 

「未熟なキューは恐竜の時代で自立して生きていけるのだろうか……。」

 

キューとミューのためを思い、帰すことを決心するのび太に対し、キューは無邪気にのび太が買ってきた餌でありキューの好物である「マグロの切り身」を要求してきます。

 

「まるで飛べなくても平気だって言ってるみたい……。」

 

キューの態度は愛らしく、観客も思わず「厳しい自然界に帰さなくてもいいのではないか?」と思ってしまいます。観客のほとんどが親子であることをわかっていてこの演出。胸にくるものが大きすぎて少し苦しいくらいでした。

 

補足1 SF(すこし ふしぎ)としてのドラえもん 

 

ドラえもんの道具の中には、現代の科学理論から推論可能なものから、SFと呼ぶにはあまりにファンタジー寄りのものまで様々です。

 

代表的な例を挙げるなら、前者は「タイムマシン」。後者は「どこでもドア」など、でしょうか。しかし、大人の私たちは合理的な視点も持たなければなりません。「タイムマシン」は未来へ行くことはできても過去に戻ることはできないかもしれないし、そもそも「ドラえもん」自体、現代の人工知能技術の延長線上に実現できるのか怪しいところです。

 

ですから、原作者である藤子・F・不二雄先生は「SF(すこし ふしぎ)」という造語によって自らの作品を言い表したのでしょう。

 

では本作品において「SF(すこし ふしぎ)」要素がどのように活かされているのか。そんな視点で楽しんでみるのも私は悪くないと思います。

 

本作品のSF要素のひとつは、ドラえもんひみつ道具が生物進化の過程における「ミッシングリンク」を埋める役割を担っていることです。「ミッシングリンク(失われた鎖)」とは、生物進化の過程を「くさり」のように連鎖したものと見做したときに、連続性を持たない部分のことがそう呼ばれています。

 

有名な話では、猿から人間への進化ですね。人間と猿の大きく異なる特徴は肥大化した脳です。ダーウィンの進化論が正しいとするならば、猿から人間へ進化する過程の化石、中間種が存在するはずなのですが、今のところそれは見つかっていません。

 

本作品中では考古学の博士らしき人物が登場し、「ミッシングリンク」について何度か言及しています。彼の語るとおり、恐竜の進化についても「ミッシングリンク」が存在します。恐竜は6600万年前、ユカタン半島に衝突した隕石によって絶滅したと言われていますが、一方で現代生息している鳥類の祖先は恐竜だと言われているのです。恐竜から鳥へ。いったい恐竜はどのようにして生き残り、どのような変化を遂げて鳥類になったのか。この問題は現在も謎のままです。

 

科学理論上の空白には空想が入り込む余地があります。本作品はこの「失われた鎖」を繋ぐ物語になっているのです。そして物語を飛躍させる鍵となるのが、のび太とキューが共有している「弱さ」であるという構造は、「多様性」という議題が頻繁に語られる現代において大切な視座を提示しているものだと思うのです。

 

今回はここまで。次回は「生物の進化」について、私が考えた内容をまとめたいと思っています。ではまた〜。

 

 

「無知というのは、しばしば知識よりも確信に満ちている。科学によってこれやあれやの問題を解決することは絶対にできないと主張するのはきまって知識がない人である。」

チャールズ・ダーウィン (イギリスの自然科学者、地質学者、生物学者 / 1809〜1882)

『映画ドラえもん のび太の新恐竜』

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画像引用元:(c)藤子プロ・小学館テレビ朝日・シンエイ・ADK 2020

 

こんにちは。先日『映画ドラえもん のび太の新恐竜』を観てきました。泉楓です。

 

……え?子どもっぽい?

 

いえいえ。この映画は「ドラえもん50周年記念」として製作されているだけに、子ども向けながら、幼い頃からドラえもん関連作品に親しんできた大人たちこそ楽しめる作品だと言えると思うのです。

 

*ちなみに今作は、ドラえもん長編映画シリーズとしては40作目。第1作目はいまから40年前に製作された『映画ドラえもん のび太の恐竜』だそう。メモリアル!

 

子どもたちの付き添いのつもりで映画館を訪れた大人が思わず泣いてしまったアニメ映画と言えば『映画クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲』がまず初めに思い浮かびますが、本作もなかなかの強者。かく言う私もめちゃくちゃ楽しみました。

 

なので今回は『映画ドラえもん のび太の新恐竜』を大人の視点でレビューしたいと思います。「この作品は大人も観るべき作品だ」という理由を3つ挙げることで、本作品の魅力を掘り下げていくつもりです。それでは、本編です。

 

(以下ネタバレを含みます)

 

https://youtu.be/PbINQ0HV158

 

理由1 懐かしさ 定番の展開とお約束 

 

物語の前半は『のび太の恐竜』と同様に、のび太が恐竜の卵を発見するところから始まります。ジャイアンスネ夫からのいじめ、「恐竜の化石を見つけてやる!」と大口を叩くのび太、たまたま見つけた卵の化石、それをひみつ道具「タイムふろしき」で包んでみると……!

 

漫画版ドラえもんから現代のアニメ版ドラえもんまで引き継がれたベタな展開とキャラクターの個性が存分に盛り込まれています。

 

物語の主役、ドジで間抜けだが、純粋で勇気のあるのび太のび太を導き、物語を動かすドラえもん。「のび太のくせに」と言いつつ、冒険の匂いを嗅ぎつけると目の色の変わるジャイアンスネ夫。「のび太さん」を見守り、寄り添うしずかちゃん。

 

「追い込まれたドラえもんが慌てて取り出した道具は見当違いのガラクタである」という伝統のギャグシーンをはじめ、ドラえもんシリーズに親しみのある方なら誰もが懐かしさに顔をほころばせてしまう要素がテンポよく展開されていきます。

 

本作の特筆すべき部分は、卵から生まれた恐竜が双子であり、腕に羽毛が生えた新種の恐竜であること。そして双子のキュー(♂)とミュー(♀)のうち、キューは発育が未熟であるということです。このことが本作の問いかけであり、観賞する際の多様な視座を用意していることは明らかでしょう。

 

のび太が彼らを育てるなかで、彼らはその羽毛のついた腕を広げ、滑空するという飛行能力を持っていることがわかります。活発で身体も大きく、元気に飛びまわるミューに比べて、臆病で身体が小さく羽毛も未発達なキューはうまく飛べません。

 

*おそらく尻尾が短いことも飛べない原因のひとつ。キューと同じ種の恐竜は、尻尾を伸ばしその先端に生えた大きな3対の羽毛で飛行中に体勢を制御しているものと思われます。

 

不器用なキューに自分に似た影を見出したのび太は、母親のような思いで世話を焼くようになります。のび太はキューがうまく飛べるようになるために、様々な工夫をこらして練習を助けてあげますが、なかなか思うようにはいきません。キューは次第に飛ぶ練習を忌避するようになり、懸命なのび太とのすれ違いをみせます。

 

ドラえもんから飼育の限界を指摘され、キューとミューを彼らの仲間が生きているであろう白亜紀に返すことを決心するのび太でしたが、与えられる世話に依存し甘えてくる未熟なキューが、はたして野生の世界で自立できるのか?という不安を密かに抱きはじめていたのです。

 

恐竜の世界を冒険する一行は、様々な困難をドラえもんひみつ道具でなんとか切り抜け、ついにキューの仲間を見つけることに成功しました。しかしキューは群れに馴染めないだけでなく、一際身体の大きいオスの個体から威嚇、攻撃されてしまいます。

 

*キューの仲間である新種の恐竜は群れで子育てをするのではなく、オスとメスでつがいを組み、木の上に鳥の巣のような場所を作って子育てをするようです。彼らにとって飛べないということは、子育てができないだけではなく、自分の餌も取れなければ、外敵から身を守ることもできないということ。キューを群れから排除しようとする描写は、彼らが他の恐竜と比べて高い知能と社会性を持っているということを暗に示しているのだと思われます。

 

「弱いからって仲間外れにするなんて……そんなの……酷すぎるよ!」

 

キューに対して彼の弱点を指摘し、激励するのみであったのび太は、野生の世界で生きていくことの厳しさを噛みしめた後、キューに寄り添うように自らの態度を改めます。

 

のび太とキューが肩を並べて飛ぶ練習を繰り返すシーンはとても感動的です。その頭上を巨大な隕石が禍々しい光を放ちながら流れていきます。一行はここが6600万年前、恐竜が絶滅する直前の白亜紀であることに気が付きます。運命の歯車は止まることなく回ってしまうのです。

 

今回はここまで。時間と体力の限界が故に、本来ひとつの記事にまとめるべきところを、今回を含めた前編と後編にわけさせていただきますことご容赦ください。なるべく早く後編が更新できるように努力します。

 

『映画 ドラえもん のび太の新恐竜』は大人も観るべき作品だ。理由の残り2つをここに示しておきます。

 

理由2 アニメーション 動きで表現する生命の羽ばたき

 

理由3 テーマ性 物語が深めるメッセージ

 

次回も是非、ご期待ください!