イマヌエル・カントの三批判書
あらかじめ死を考えておくことは、自由を考えることである。
モンテーニュ(フランスの哲学者、モラリスト / 1533~1592)
こんにちは、泉楓(いずみかえで)です。こちらのブログでは、好きな文芸、アート、音楽の紹介や、それらを観賞して日々感じたこと、考えたことをまとめていこうと思います。
流れゆく雑感を書き留めておきたいという希望から始めたものなので、考察や実証の行き届かない部分もあるとは思いますが、どうかご勘弁ください。
それでは本編です。
イマヌエル・カントの三批判書
18世紀ドイツの哲学者イマヌエル・カントは、人間の認識能力を批判的に論じることによって、人間の持つポジティブな可能性を明らかにしようとした人物です。彼の言葉や文章に触れることで私が受け取ったひとつの問題はこちらです。
『自由の意味とは……?』
自由という名の旗の下に、現代社会は今の形を獲得してきました。自由という概念の及ぼす大きなうねりは、それを煽る者もそれに抗う者も巻き込んで、現代に住む私たちにまで波及していると言えるのでしょう。
では、自由とは本当に良いものなのか?
……と、私は疑問に思ったのです。その疑問の解答を模索するためにも、自由とは一体何なのか、その意味と価値を吟味したいと私は思っています。その第一歩に示唆を与えてくれた文章、それこそがイマヌエル・カントの三批判書だったのです。
- 人間の認識の仕組み
まず、カントは著書『純粋理性批判』において、人間の理性についてその性質を吟味しています。
次に示すのは、人間の認識能力を表した私のイメージ図です。
カントは人間が主観的に心の中で描いている像のことを「現象」と呼び、人間の外側の客観世界にある事物を「物自体」と呼んで区別しました。
「物自体」は認識不可能な物質の広がりであり、人間はそこから受け取る様々な信号を認識能力を以って処理するのだと考えたのです。
さらに認識能力は二段階に分けられ、それぞれを「感性」と「悟性」と名付けました。「感性」は受け取った情報から、時間と空間という枠組みの中で「直観」を形作ります。「悟性」は受け取った情報を「カテゴリー」に分け、判断を行う役目です。
感性を受動的認識能力だとするならば、悟性は自発的認識能力だと言えるでしょう。
「カテゴリー」というのは人間が物事を考える際に使っている思考のパターンだと捉えて良いと思います。カントはカテゴリーを12のパターンに分類しました。
- 量のカテゴリー
- 単一性
- 数多性
- 総体性
- 質のカテゴリー
- 実在性
- 否定性
- 制限性
- 関係のカテゴリー
- 実体と属性
- 原因と結果
- 相互作用
- 様相のカテゴリー
- 可能、不可能
- 現存性、非存在
- 必然性、偶然性
*それぞれの具体的な例については割愛致します。
カントは人間の認識能力を上記のように分析することで、感性の次元で直観的な時間・空間把握を行い、悟性の次元でカテゴリーにより判断が行われると説明しました。
重要なのは、これらの能力が人間に先天的に備わっており、経験を必要とせずとも、カントの分析した認識能力によって物事を捉えることができるということです。
もしもカントのこのような知見がなければ、人間は経験によって得られた情報に基づいた判断しか下せないということになります。人間が観ている主観世界の外側に一切の人間の思考が入り込めないということは、人間の自由意志の存在を認めないということになりかねません。
もうひとつ重要な点があります。カントがこのように認識能力を、『私』を中心に据えて考えたということです。『私』が見て、触れて、嗅いで、聴いて、感じたことを『私』という独立した個体が統合し、判断することでカントが分析した認識は成り立っています。これこそ自由の根本原理なのです。(だと私は信じています。)
今回の記事はここまで。カントの三批判書に関する記事はいずれ続編を書くと思います。
稚拙な点も散見されるとは思いますが、皆さまのお暇に、知的な風味のするお茶菓子を添えられたのであれば幸いです。ではまた。
人間を自由にできるのは、人間の理性だけである。人間の生活は、理性を失えば失うほどますます不自由になる。
トルストイ(ロシアの小説家、思想家 / 1828~1910)