縷紅草~ルコウグサ~

金曜日更新のおはなし

陽だまりの地縛霊

 

ネットで名言を調べていると、次のような文章がゲーテの名言として紹介されていました。

 

自分自身を信じてみるだけでいい。
きっと、生きる道が見えてくる。

 

ひとを前向きにしてくれる良い言葉だと思い、出典を調べてみると、もともとの文章はゲーテの戯曲「ファウスト」でメフィストフェレスが発した台詞であることがわかりました。

 

Sobald du dir vertraust, sobald weißt du zu leben. 

 

「自分を信じることができれば、すぐに生き方がわかるよ。」というような意味でしょうか。名言として紹介されていた訳も、間違いではないような気がします。

 

ちなみに「舞姫」などで有名な森鷗外はこれを「万事わたしにお任せになさると、直に調子が分かります。」

 

日本のドイツ文学者でエッセイストの池内紀は「自信がつけば態度も変わってくる。」と訳しています。

 

同じ文章をドイツ語から日本語へ訳すという作業だけでも、様々な違いが現れてくる。もちろん意訳や逐語訳であることの違いによる差異もありますが、文学作品の翻訳ということもあって、翻訳者の多様な解釈が伺えて興味深いですね。

 

こんにちは、泉楓です。今回は雑記です。特に書く内容は決まっていません。エッセイストになったような気持ちで、軽く書いていきます。

 

先日、動物園へ行く機会がありまして、動物を見て参りました。生物に興味が湧いていた時期なので大変楽しめました。

 

特に印象に残っているのはオランウータン。ハンモックに身を委ねた姿を直近で観察することができました。私の前に見ていた3歳ほどの女の子は「怖〜い」と泣きながら去って行きました。たしかに怖い(笑)。身体が大きい上に、人が近寄って来ても全く動じないその威風堂々たる態度。とても力が強いらしいので、私も隔てがなければ逃げ出しています。顔を近づけて観察していると、こちらに顔を向けてきました。目があった。好奇の目で見ている私をみると、彼は目を伏せて右手で顎を摩りました。

 

「人間みたい!!!」

 

さすが「orang(人)hutan(森)」と呼ばれるだけあるなぁ。私は満足してその場を去りました。

 

*後でわかりましたが、インドネシアの沿岸部に住む人々が奥地に住む人々のことを「オランウータン」と呼んでいたのをヨーロッパの人が勘違いしたそうです。現地には「orang〜」という名のUMAが複数いるらしい。

 

 

ダーウィンは「進化論」のなかで、「獲得形質の遺伝」を肯定的に語っていますが、現在の遺伝学では否定されているそうです。

 

「獲得形質の遺伝」とは、生物が後天的に獲得した身体的形式が遺伝することを指します。ダーウィンは「進化論」に対する反論として、「デザイン論」のような反論を想定していました。例えば機械仕掛けの時計が道端に落ちていたとして、それが自然発生的に存在していると考える人は少ないと思います。誰かがそれをデザインしたから時計はいまその場に存在している。誰しもそう考えるでしょう。昔から、生物も例外ではなく、超越的な知性によってデザインされたものだという考え方をする人はたくさんいました。モノを見るために目がある。音を聞くために耳がある。まさかそれらが自然に発生したものだとは考えない。ダーウィンは生存競争や自然淘汰のなかで、生物がより優れた形態を獲得し、それが親から子へ引き継がれていくことで「進化」は起こるのだと考え、それまでのデザイン論的な考え方を踏破したのでした。

 

ところが、現代では「エピジェネティクス」という言葉で知られている研究分野があります。「獲得形質の遺伝」は完全に否定されたわけではなく、生物の世界には後天的な性質を次の世代へ伝えているような例が散見されるそうです。

 

私たち人間は、常により良く在ろうとする生物だと思います。それゆえに憂鬱に陥ったり、絶望感を味わう人も少なくありません。カントは理性は完全性を求めるものとし、理性が際限なく因果を解明しようとすることを指摘しました。はたして人間は理性のみによって、この世界の認識を完全なものへと進化させることが可能なのでしょうか。

 

科学は確かに日々進歩しています。言い換えれば、人類は日々、世界への認識を深めているとも言えます。私たちは個人として、この認識についていくことが可能なのか。そもそも「正しい認識」は私たち個人にとって必要なのだろうか。私は最近よく「理性の限界」について考えを巡らせます。

 

人間の理性は「神」のように振る舞うこともあれば、驚くような悲劇を招く「悪魔」にもなり得ます。理性が鈍ると理解できないような人間の本能が剥き出しになることも、みなさんの経験則として理解されていると思います。

 

学問に対する嫌悪感を抱いている人もいるかもしれません。理知的な論理体系を前にして自分には関係がないと考える人もいるかもしれません。一般的に知識とは必要ならば取り入れて、必要がなくなればすぐに忘れてしまうもの。日常生活に則した知識ならば重宝されても、日常生活に関係しないような知識を持っていれば、変な目で見られてしまうことだってあるでしょう。

 

私は人間個人の幸福にとって、「正しい世界認識」は必要だと考えています。(幸福についての記事もいずれ書きたいですね。)ですから、いかなる知識、日常生活に全く関係がないように思える知識であっても、私個人の幸福にとって欠くことのできないピースなのです。

 

私は幼い頃から学問に興味関心を抱いてきましたが、勉強が好きではありませんでした。勉強は"しなければならない"もので、苦痛を伴うものだったからです。押し付けられればやる気を損ない、勉強から逃避するために娯楽に逃げたことが何度もあります。

 

人間の理性は幼い頃からその萌芽を見せているのです。あらゆるものに興味を抱き、見るもの全てが新鮮な驚きと輝きに満ちている。よく「大人は目から輝きを失っている」と言われたりしますが、それはあらゆる物事に「新鮮さ」を感じないからだと私は思っています。

 

「世界の認識」は本質的に多様性と無限性を包含していると私は考えます。ゆえに子どものような曇りのない目で世界を見ると輝いて見えるのです。大人になると世界を分かってしまった(認識し尽くした)ように勘違いしてしまう。つまり世界は輝きを失うのです。

 

生物を学ぶ中で、私が生物から受け取った示唆があります。宇宙及び地球、そして生命は全て見えない糸で繋がっているということ。その糸は複雑に絡み合い、複雑に絡み合ったなかに秩序を形成させる役割を生物が担っているということ。生物の能力とは自然の能力であり、我々生命を持つものは皆、固有の能力を持ち、それがかけがえのないものであること。

 

進化は差異から生まれます。周りと違う、個人として存在の不安を感じるということは、生物にとって重要なことなのです。孤独感は幻想に過ぎません。生命はひとりで成り立つものではないからです。私たちが取り除こうとしている不幸や苦痛でさえ、全く無意味で無価値だということは、ほぼあり得ないと言っても良いのだと思います。

 

先日、陽だまりかと思って近づいてみると金木犀が散った跡でした。半日後に再度その場所に行くと、風に散って陽だまりはなくなっていました。

 

私はそれを幽霊みたいだなと思いました。ある場所、ある時間に囚われて身動きが取れないでいる地縛霊。私は風に吹かれてちりぢりになった陽だまりに親しみを込めて手を合わせました。

 

本日はここまで!ご静聴、ありがとうございました〜😊

 

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