私の幸福論 第一部
幸福とは何か。どこにあるのか。どこからくるのか。快楽とは違うのか。幸福感ではなく、必然性と普遍性のある幸福はあるのか。
アリストテレスは『ニコマコス倫理学』において、幸福こそが誰もが求める最高目標であると語っています。それは幸福が他の何物のための手段にはならないということです。人生の目標は幸福になることであり、幸福になることによって何かを得たり、何かを実現するのではなく、幸福のために私たちは生きているのだ。
日本の哲学者である三木清は、幸福について次のように語りました。
今日の人間は幸福について殆ど考へないやうである。試みに近年現はれた倫理學書、とりわけ我が國で書かれた倫理の本を開いて見たまへ。只の一個所も幸福の問題を取扱つてゐない書物を發見することは諸君にとつて甚だ容易であらう。
……(中略)……
過去のすべての時代においてつねに幸福が倫理の中心問題であつたといふことである。ギリシアの古典的な倫理學がさうであつたし、ストアの嚴肅主義の如きも幸福のために節欲を説いたのであり、キリスト教においても、アウグスティヌスやパスカルなどは、人間はどこまでも幸福を求めるといふ事實を根本として彼等の宗教論や倫理學を出立したのである。幸福について考へないことは今日の人間の特徴である。現代における倫理の混亂は種々に論じられてゐるが、倫理の本から幸福論が喪失したといふことはこの混亂を代表する事實である。新たに幸福論が設定されるまでは倫理の混亂は救はれないであらう。
三木清 人生論ノート「幸福について」より
出典 青空文庫https://www.aozora.gr.jp/cards/000218/files/46845_29569.html
人生の目的とは何か?と問われた時に、現代の人々が答えに困る様子は容易に想像がつきます。仕事、家族、趣味、恋愛など、それらしい答えを一応持ち合わせる人はいるでしょう。しかし、それらが私たちを裏切ったとき、私たちは人生に絶望してしまうことになります。
「絶対の真理などない。」
私は相対主義者だと名乗る人がいれば、そのように言い放つかもしれません。ならば私たちの人生の目的とは何なのでしょう。人生に目的や意味がないのだとしたら、私たちはこの苦悩に満ちた人生をどのように乗り越えたらいいのでしょう。苦痛や困難からひたすら目を逸らし、快楽に取り囲まれ享楽的に生きる。それでも良いのかもしれない。
しかしみなさんは、それで納得できるでしょうか?
死の恐怖や、どうしようもなく目の端に映る悪魔の影に怯えていては、せっかくの快楽も歪んでしまう。もしくは快楽が実は悪魔であって、私たちは悪魔に騙されながらたった一度きりの人生を生きている。多くの疑い深い人々にとって手段に過ぎない数多の快楽は陳腐に見えてしまうものです。虚無や絶望を抱えながら生きていくには、私たちは弱すぎる。
今日は人生の目的は幸福だということを前提に、「私の幸福論」を構築していきたいと思っています。
申し遅れましたが、筆者は泉楓が務めさせていただきます。それでは本編です。
1. 人生の最高目的は幸福である。
前書きにも書いた通り、私は人生の目的は幸福だと仮定しました。仮定なので根拠は必要ないかもしれませんが、これから命題のようにこの文章を扱うため、いくつか根拠を示していきたいと思います。
- 幸福以外、人生の目的になり得ない。
先程、人生の目的としての例で、仕事、家族、趣味、恋愛など、現世的で人生の目的として妥当だと思われる事柄を列挙しました。しかしこれらは現世的であるが故に、人生の最高目的にはなり得ません。現世的であるということは、万人に共通で必ず訪れる死によってそれらは失われてしまいます。人生の最高目的であるためには、アリストテレスが語るとおり、何物の手段にもならないということが条件になります。言い換えるならば、仕事や家族、趣味や恋愛のような現世的幸福の種々は、人生の幸福のための手段である。こちらの方が妥当だと思われます。人生を生まれてから死ぬまでの全ての事柄だと考えるのであれば、その最高目的は現世的であってはならないのです。
死によって人生が終わってしまうのなら(転生や魂の不滅がないのだとしたら)、最高目的である幸福でさえも、意味のないものだと感じるかもしれません。現世を善く生きることで来世を肯定したり、最高目的を幸福ではなく、その逆説である「苦しみから逃れること」と考えた方が幸福になれそうな気がします。しかし、私はあくまで現世肯定と幸福自体を目的とすることを前提に考えを進めたいと思っています。
2. 幸福とはどういうことか。
さて、人生の最高目的を幸福だとしたところで、幸福とは何なのか?どういう状態か?という疑問が生まれます。
その疑問を考えていくために、過去人類が幸福をどのように捉えていたのか振り返ってみたいと思います。
最近の幸福論のトレンドといえば「功利主義」ですね。「最大多数の最大幸福」という言葉で有名です。哲学をよく知らないという方でもこの言葉は聞いたことがあるのではないでしょうか。
功利主義とは、イギリスの哲学者ベンサムが初めに唱えたものです。個人の幸福は快が得られ、苦痛が欠如したものだと考え、個々人の快の度合いと苦痛の度合いの総和を「最大幸福」として、「最大多数の最大幸福」の実現を社会の基盤にしようという考え方です。
功利主義に向けられる批判として、「自由論」で有名なイギリスの哲学者ジョン・スチュアート・ミルのものがよく知られています。ミルはベンサムの功利主義には質的な観点が抜けていると指摘し、快や苦痛を量として測るだけでなく、人によって快楽の感じ方、質が変わることに留意しなければならないと批判しました。
功利主義で語られる「幸福」は快楽と苦痛の総和であり、その言説は現世的な幸福にしか及んでいません。それでは人生の最高目的たる幸福の定義としては心許ない気がします。
これは思考実験ですが、人類の技術が進歩して脳に電極を刺し、微弱な電気信号を送ることで快楽を操ることができたら?功利主義的に考えれば、みんなこの機械に操られることが幸福だということになります。量的で現世的な快楽は最高目的としてはふさわしくないのかもしれません。
質的に幸福を考えるとき、キーワードとなる言葉は「能動性」だと私は考えています。同じ幸福であっても能動的であるか受動的であるかで、私たちの受け取り方は違っていると感じるからです。他者から恩恵を受けても、自ら掴んだ報酬と比すると霞んでしまうものです。
質的に良い幸福に欠点があるとすれば、より良い幸福を得たいと考えて満足しなくなるということです。これを克服するには他者と比較しないことが必要です。動機に私を据えて、私が結果を得る。他者をどうにかするのではなく、幸福を最高目的として私の幸福を探究する。
スイスの法学者カール・ヒルティは著書『幸福論』において次のように語っています。
幸福の第一の必要欠くべからざる条件は、倫理的世界秩序に対する正しい信仰である。
人生の幸福は、困難が少ない、あるいはまったくないということにあるのではなく、それらをすべてりっぱに克服することにあるのである。
「倫理的世界秩序に対する正しい信仰」とは、「人間の行動の規範となるような幸福観を持ち、その規範に従うことで世界の秩序が保たれるのだと信じること」だと私は解釈しました。
幸福は、単に快楽や苦痛の量によって計算されうるようなものではなく、また、私たちが主体的になって幸福を保とうとすることが必要なのです。
- 理性的幸福と感性的幸福
世界三大幸福論のひとつ、アランの『幸福論』では、非常に具体的でわかりやすい幸福観が著されています。
幸福の秘訣のひとつ、それは自分の不機嫌に対して無関心であることだと思う。
気分は判断力によるものではない。
幸せだから笑うのではない。笑うから幸せなのだ。
情念のほうが病気よりも耐えがたい。その理由はおそらくこうだ。情念は私たち自身の性格や思想から全面的に起因しているように見えるが、それとともに、どうにも打ち克つことのできない必然性のしるしを帯びているのである。
情念に対しては、私たちはなす術がない。というのは、私が愛するにせよ、憎むにせよ、必ずしも対象が目の前にある必要はないからだ。
アランは幸福を、私たちが不快に感じる身体的要因を排除することによって実現に近づき得るものだと捉えています。簡潔に言えば、ゴキゲンな生き方を志向することで、人生をポジティブにデザインしていこうということでしょうか。抽象的な理論の体系化を嫌ったというアラン。具体的であるが故に本質に肉薄した幸福論であると思います。
しかし、理性が求める幸福は完全性を伴ったものです。人生の最高目的としての幸福には普遍性がなければいけない。理性はどうしてもこのように考えるものです。感性的幸福と理性的幸福。その両立が達成されたとき、私は真に幸福を理解したことになるのだと信じています。
今回はここまでにします!
次回はアランの『幸福論』の考察から始めて、幸福についての理解を深めていきましょう!
ではまた!
よりよく生きる道を探し続けることが、最高の人生を生きることだ。
我々が皆自分の不幸を持ち寄って並べ、それを平等に分けようとしたら、ほとんどの人が今自分が受けている不幸の方がいいと言って立ち去るであろう。