私の幸福論 第三部
浪費するのを楽しんだ時間は、浪費された時間ではない。
バートランド・ラッセル イギリスの哲学者、論理学者、数学者(1872〜1970)
こんにちは、泉楓です。幸福論も三回目ですね。今回はいよいよラッセルの幸福論。ラッセルと言えばノーベル文学賞の受賞者としても有名です。若い頃は数学の研究に没頭。数学から論理学、論理学から哲学に興味を移し、晩年は政治の世界にも多大な影響力を持つ知識人として、数多くの名著を残しました。今回取り上げる『幸福論』はもちろん、『結婚と性道徳』や『哲学入門』など、わかりやすくて深遠な著作がたくさんあります。また彼は核廃絶運動家としても有名です。彼が物理学者アインシュタインと協力して発表したラッセル=アインシュタイン宣言は、人類の科学に対する向き合い方を議論するパグウォッシュ会議の開催に繋がりました。
多才で活動的なラッセルが著した『幸福論』がいったいどのような内容なのか。現代の私たちの考え方の参考になるのか。さっそく考えていきましょう。
ラッセルは幼い頃に父を亡くし、厳格なプロテスタントである祖母から厳しく育てられたといいます。その頃を振り返ってラッセルは次のように語るのです。
徳のみが、知性や健康や幸福や、あらゆる現世的善を犠牲にした徳のみが、賞賛された。
『自伝的回想』より
祖母から押し付けられた価値観や道徳に対して強い反感を抱いていた彼は、だんだんと数学の世界に没頭するようになり、"合理的に考えること"を自らの理念として確立していきました。
自らの理性を信じ、自らの行動規範を自ら考え、道を見出す。これはラッセルの思想の核となっているのだなと私は感じました。
彼は幸福についても合理的に考察していきます。まず不幸の原因となる事柄を洗い出し、列挙する。そしてそれらを克服すれば幸福になれると考えたのです。
ラッセルが挙げた不幸の原因が次の八項目です。
続いてそれぞれの対処法を見ていきましょう。(項目はそれぞれの数字に対応しています。)
- 楽観的な行動によって思考をコントロールする
- 他者との比較を止め、取り組んでいる活動を純粋に楽しむ
- 過剰な興奮を求めず、退屈を肯定する
- 疲れは精神的な心配が原因なので、客観的に物事を捉え直すことで、あらゆる心配が杞憂であることに気付く
- 比較は無意味であると知り、自分の好きな物事に没頭する
- 他者から与えられた道徳観念に価値はないと知り、自らの理性を信頼する
- 物事が上手くいかないことの原因を他者に求めても一切解決しないと知る
- 不必要に世評に耳を傾けない。また個々人が真の幸福を探究し、満足することで、他者に苦痛を与えることを主な楽しみとしない寛容な個人を増やす
合理的に考えるラッセルらしい列挙と回答ですね。不幸の原因をひとつひとつ検討しています。私はここからラッセルの幸福についての考え方を抽出していこうと思います。
ラッセルは不幸の原因第七項の「被害妄想」を解決する思考方法として、次のようなことを指摘しています。
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「あなたの動機は、必ずしもあなた自身で思っているほど利他的ではないことを忘れてはいけない」
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「あなた自身の美点を過大評価してはいけない」
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「あなたが自分自身に寄せているほどの大きな興味を他者も寄せてくれるものと期待しない」
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「大抵の人は、あなたを迫害してやろうと特に思うほどあなたのことを考えているなどと想像してはいけない」
ラッセルは他者を冷静に観察をしているということがわかるでしょう。理屈で考えれば、他者の心とは不可知なる存在です。不可知なる存在である他者の心について、あれこれと想像したり推論することはあまり意味がないと考えていたようですね。「周りがどう思うか」よりも、「わたしがどう考えるか」の方に価値を置いていたことがよくわかります。
ラッセルは「心の分析」という著書のなかで「世界五分前仮説」という思考実験を提出したことでもよく知られています。ラッセルは知らなくても、この思考実験なら知っているという方もいらっしゃるのではないでしょうか。
世界が五分前にそっくりそのままの形で、すべての非実在の過去を住民が「覚えていた」状態で突然出現した、という仮説に論理的不可能性はまったくない。異なる時間に生じた出来事間には、いかなる論理的必然的な結びつきもない。
それゆえ、いま起こりつつあることや未来に起こるであろうことが、世界は五分前に始まったという仮説を反駁することはまったくできない。
したがって、過去の知識と呼ばれている出来事は過去とは論理的に独立である。そうした知識は、たとえ過去が存在しなかったとしても、理論的にはいまこうであるのと同じであるような現在の内容へと完全に分析可能なのである。
バートランド・ラッセル著「心の分析」より
この思考実験によりラッセルが述べたいことは、経験した事柄に対してわたしたちが独断的に考えたり、推論したりしていることは実は誤りかもしれない、ということかと思います。
「太陽は東から昇って西へ沈む」という事柄の信憑性を裏付けるものとは、わたしたちの経験以外の何物でもありません。では同じように「太陽は地球の周りを回っている」という事柄を考えてみると、どうでしょうか?
地球に住んでいるわたしたちの経験から推測すると、太陽はわたしたちの頭上を回っていると考えるのが妥当だと思いませんか?
しかし、わたしたちは「太陽という恒星の周りを地球を含む惑星が回っている」という知識を持っているので、「太陽は地球の周りを回っている」という事実は誤りだとわかります。
このように考えると、現代に生きるわたしたちが、無意識のうちに科学を信頼し、時にはわたしたち自身の経験より客観的事実を優先しているということに気づくことができますね。
ラッセルは経験則として得られる様々な知恵よりも、自らの理性によって考えられた合理的な結論を重要視しています。
例えばあなたが自分より年上の人から「私のほうが経験が豊富なのだから、私の意見に従いなさい」と言われたとしても、あなたの理性が「従うべきではない」とあなたに語りかけるのであれば、あなた自身の考えを優先させても良いということです。
ラッセルの幸福観
幸福の秘訣はこういうことだ。あなたの興味をできるかぎり幅広くせよ。そしてあなたの興味を惹く人や、物に対する反応を敵意あるものでなく、できるかぎり友好的なものにせよ。
ラッセルは自己の内部と外部では、外部に重きを置いています。自己の内部に傾倒しすぎると「自己没頭」「ナルシシズム」「誇大妄想」によって自分自身を苦しめることになると言うのです。
論理的に考え得る対象はいつも外側、客観的世界にあるものです。わたしたちの世界、独我論的世界から抜け出すための道具は、言葉と記号による論理的思惟なのかもしれません。
対してわたしたちが「心」と呼んでいる対象、「私」、「あなた」と呼応する際にわたしたちが指向している何かについては、合理的に考えようとすればするほど泥沼にはまっていくような気がします。
ラッセルは「幸福な人」は「私心のない興味」を持っていると分析しています。また他者に対しては正しく愛情を持ち、「努力と諦め」を心得ていると語っているのです。
最上のタイプの愛情は、相互に生命を与えあうものだ。おのおのが喜びをもって愛情を受け取り、努力なしに愛情を与える。
賢人は、妨げうる不幸を座視することはしない一方、避けられない不幸に時間と感情を浪費することもしないだろう。また、それだけなら避けられるような不幸に見舞われたとしても、もしもそれを避けるのに必要な時間と労力がもっと重要な目的の追求を妨げるようであれば、進んでその不幸を甘受するだろう。
自分自身の理性を信頼する。それは他者についても同じことです。皆それぞれが自分自身の理性を信頼し、自ら考え自ら行動している。実際の所はどうかわかりませんが、そのように信じることで他者を愛することも、自身を愛することも可能になります。相手の人格を尊重し、相手を単に手段としてみなさないということ。これはアランの幸福論にも共通した考え方ではないでしょうか。
さて、ここまでアランとラッセルの幸福論を読み解いてきましたが、ここに批判を加えるとしたらどのような批判が可能でしょうか。
両者とも、実践的な幸福論を展開しています。それは幸福が現世的なものであり、語り得る範囲でしか存在していない、という前提で論を展開しているからです。
不幸の原因を遠ざけ、幸福の要因に自ら歩み寄っていく。確かに多くの人はこの実践的なプロトコルに従っていれば幸福になれるのかもしれません。
しかし、この世界にはそのプロトコルを機能不全に陥れてしまうような不条理な出来事が溢れていませんでしょうか。
生まれつき戦争の渦中にいる者、生まれつき飢餓状態にある者、生まれつきあらゆるチャンスが奪われている者。
生きづらい、悲しみや苦痛に覆われて前も見えないという人々が、この世界には存在していると思います。ラッセルやアランも言っているように、世界全体が幸福でなければ、私が真に幸福になることはできません。それは逆も然りです。
今回はここまでにします。次回からはヒルティの幸福論を読み解きながら、より普遍的な幸福に迫っていけたらと思っています。ではまた。
個人的な目的が人類のためのより大きな希望の一部であった場合は、たとい挫折したとしても同じような、完膚なきまでの敗北ではない。
幸福な人とは、客観的な生き方をし、自由な愛情と広い興味を持っている人である。また、こういう興味と愛情を通して、そして今度は、それゆえに自分がほかの多くの人々の興味と愛情の対象にされるという事実を通して、幸福をつかみとる人である。
バートランド・ラッセル『幸福論』より
バートランド・ラッセル「神について」YouTubeより。
おまけ。参考までに。