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シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇 虚構の価値と魂のルフラン

 

本記事は『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』のネタバレを含む箇所がございます。あらかじめご了承ください。

 

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エヴァンゲリオンが終わったー

 

ひとつのアニメ作品が完結したというだけでこれほど騒がれているということは、アニメに興味がない人からみると異様なことなのかもしれません。私自身は1995年生まれです。当時放送されていた『新世紀エヴァンゲリオン』を新鮮な感覚で鑑賞した世代の人々と比すれば、この事件から受けた衝撃の度合いは低いのかもしれません。しかし、そんな私でさえ『シンエヴァ』を観た後の感傷はかなり深いものでした。今回はその事件的作品と私の好きな詩人との類推から得た感想を述べようと思います。

 

  • 運命とは何か テーマソングから見えるもの

 

残酷な天使のテーゼ 少年よ神話になれ

 

エヴァを象徴するような歌詞であることは周知のことでしょう。テーゼとはドイツ語で定理、命題を指します。哲学用語ではありますが、本作においてはどのような意味合いを持ちますでしょうか。「天使」と聞いてみなさんが思い浮かべるのは「使徒」でしょう。とても「天使」とは思えないビジュアルで描かれている「使徒」ですが、そこには悪魔と天使は表裏一体であるという世界観が透けてみえているのではないでしょうか。

 

ご存知のとおり、エヴァの世界観は一神教における聖書がベースとして敷かれています。「使徒」は神からの「言葉」を人間に伝えるべく天界から遣わされた者なのかもしれません。その「言葉」とは一体なにか。

 

「人類は使徒によって滅ぼされる」

 

これこそが「残酷な天使のテーゼ」でしょう。人類は神の力をコピーし「汎用ヒト型決戦兵器 人造人間エヴァンゲリオン」を作り上げ、使徒にあらがいます。(詳しくはわかりかねますが、神の力に手を出した人類の罪に対する審判こそが使徒の襲来なのかもしれませんね)主人公「碇シンジ」は、意せずして人類の命運を背負わされ、エヴァ搭乗者として使徒の前へ躍り出る。「少年よ神話になれ」とは彼の運命を示しているのでしょう。

 

しかし、当然ながら主人公「碇シンジ」は自らの運命に苦悩します。人類が滅亡という運命にあらがうのと同様に、彼も自らの運命にあらがいます。「逃げちゃダメだ!」と「嫌なことから逃げ出して何が悪いんだよ!」という相反する自身の言葉に、彼は引き裂かれていきます。引き裂かれるのは彼のみならず、「チルドレン」と呼ばれるエヴァ搭乗者「式波・アスカ・ラングレー」等も様々な言葉と現実の間で精神が引き裂かれてしまうのです。

 

そんな悲劇を見せられた私たち視聴者はもれなくこう思ったに違いありません。

 

「アニメ作品を観ているのに、どうしてこんな残酷な話を見せられているのか」

 

この疑問についても、今後考えていくことになると思います。

 

 

私に還りなさい

記憶をたどり

優しさと夢の水源へ

 

もいちど星にひかれ

生まれるために

 

魂のルフラン

 

傷ついた友達さえ

置き去りにできるソルジャー

あなたの苦しさを

私だけに つたえていってほしい

忘れない 自分のためだけに

生きられなかった淋しいひと

私があなたと知り合えたことを

私があなたを愛してたことを

死ぬまで死ぬまで誇りにしたいから

冷たい夢に乗り込んで

宇宙に消えるヴォイジャー

いつでも人々を変えるものに

人々は気づかない

行く先はどれくらい遠いの

もう二度と戻れないの

 

『シンエヴァ』の劇中歌に松任谷由実さんの『VOYAGER〜日付のない墓標〜』が使用されたことは大きな話題になりましたね。

 

エヴァのテーマとして欠かせない言葉のひとつに「愛」があります。作中で何度も「愛とは何か?」という問いかけがなされているからです。

 

本作において人類は「リリン」と呼ばれる存在として位置づけられています。ユダヤ教の伝承では、アダムの最初の妻リリスから生まれたとされる悪魔の名が「リリン」です。リリンの母にあたるリリスは「知恵のある女性の象徴」とされたり「夜の魔女」と呼ばれたりしています。

 

「リリンは知恵の実を得た不完全な存在である」というのがエヴァの世界観と考えられます。リリンは不完全であるために単独では生きていけず、常に自らの欠陥を「補完したい」と欲する存在だとされているのです。

 

「愛」は不完全なリリンが他者との繋がりを求める際の根源的な力として働いているものと考えます。人間が元来は完全な状態にあったとするならば、この世に生まれる以前に戻りたいと願う心は、この「愛」の力に引かれていると考えることも可能です。とすれば、本作において「エヴァ」は「母の愛」の象徴だと捉えることもできます。実際、主人公碇シンジエヴァ搭乗時に精神的な安息を台詞にして語っています。

 

ここで「愛」は「死への欲求」とも捉えることができることにお気付きでしょうか。旧劇場版エヴァンゲリオン劇中歌『甘き死よ、来たれ』にも象徴されているとおり、死んでしまうことであの世に行けるのだとしたらそれは「susser Tod」、より完全な状態へ昇華して安息を得ることに他ならないのではないでしょうか。

 

エヴァの大きな謎のひとつ「人類補完計画」とは、碇ゲンドウの「愛への渇望」と奇怪な一致を示し、作中にて様々な儀式を経て遂行されていく人類の償いであり、罪過の繰り返しでもあります。

 

孤独に闘う戦士に訪れる死は「もう戦わなくていい」という愛と赦しの言葉であると共に、その魂を得体の知れない「あの世」という場所に縛りつける呪いと断罪の墓標でもある。祝福と呪詛は一体にして、繰り返される破壊と再生の預言といえるでしょう。これはいわば終わりのない「魂のルフラン」なのかもしれないですね。

 

『シンエヴァ』で好きなシーンを挙げろと言われたとしたら、私は「葛城ミサト式波・アスカ・ラングレーの特攻シーンだ」と答えます。特にアスカは個人的に感情移入してしまうキャラクターなので、彼女が命をかけて敵に飛び込んでいくシーンで私の心は浄化されるのです。

 

母の愛を充分に受けられずに育った彼女もまた、欠落した何かを渇望する存在として登場します。自らの存在意義を軍隊という組織に預け、唯一無二の存在として認められたいという一心で成績トップを取り続けてきた彼女。人類の存亡をかけた作戦に身を投じて死するということは彼女が常に望んできたことなのでしょう。鑑賞中「おバカさん」という甘い囁きに涙を流したのは私だけではないはずです。

 

 

先日、NHKで放送されたドキュメンタリー番組「プロフェッショナル 仕事の流儀庵野秀明スペシャル~」をみなさんはご覧になりましたでしょうか。アニメーションスタッフが仕上げた仕事をみて、何度もやり直しの指示を出す監督 庵野秀明の姿はとても印象的でした。あまりに酷な絵コンテからのやり直しの判断。どうして彼はそのようないたずらにも思える判断を繰り返すのでしょうか。

 

私はそのような行為こそが、彼の作劇法だからではないかと考えるのです。言い換えれば、そのような方法でこそエヴァンゲリオンという世界は作られるのだということです。

 

創る、壊す、の繰り返し。出来てきた世界を批評し、さらに庵野秀明の内部にあるイメージに近い世界観へ描き変えていく。そうして完成したものでさえ批評して破壊していく。破壊されて露出した内部にこそ本質がある。庵野秀明の哲学はそういったものなのではないでしょうか。だから壊す。何度でも創っては壊していく。さて、ここで先程の疑問にも答えが見えてきます。

 

「残酷な世界をどうしてわざわざ見せられなければいけないのか」

 

答えは、それこそがエヴァンゲリオンという作品、そして監督 庵野秀明の作劇の本質だからでしょう。キャラクター造形、メカデザインから世界観の設定まで、それらをことごとく破壊しないことにはエヴァンゲリオンという作品は生まれてこないのです。逆説的に聞こえるかもしれませんが、エヴァンゲリオンという作品自体が「作品を破壊する」という理念のもとに作られた物であるからなのです。

 

こういった考え方は独特ではあるかもしれませんが、特別に斬新というわけではありません。芸術の世界には似たような考え方があります。象徴主義、耽美主義から派生した退廃主義、デカダンと呼ばれるものです。フランスのボードレールランボーヴェルレーヌ、イギリスのオスカー・ワイルドなどが代表的な作家です。

 

私の好きな詩人の中原中也は特にランボーの影響を受けて詩人を志したといいます。中原中也の詩を一篇、ここに引いてみます。少し長いですが、作品を尊重してそのまま引用します。

 

盲目の秋

   Ⅰ

風が立ち、浪が騒ぎ、
  無限の前に腕を振る。

その間、小さな紅の花が見えはするが、
  それもやがては潰れてしまう。

風が立ち、浪が騒ぎ、
  無限のまえに腕を振る。

もう永遠に帰らないことを思って
  酷薄な嘆息するのも幾たびであろう……

私の青春はもはや堅い血管となり、
  その中を曼珠沙華と夕陽とがゆきすぎる。

それはしずかで、きらびやかで、なみなみと湛え、

  去りゆく女が最後にくれる笑いのように、
  
厳かで、ゆたかで、それでいて佗しく
  異様で、温かで、きらめいて胸に残る……

      ああ、胸に残る……

風が立ち、浪が騒ぎ、
  無限のまえに腕を振る。

   Ⅱ

これがどうなろうと、あれがどうなろうと、
そんなことはどうでもいいのだ。

これがどういうことであろうと、それがどういうことであろうと、
そんなことはなおさらどうだっていいのだ。

人には自恃(じじ)があればよい!
その余はすべてなるままだ……

自恃だ、自恃だ、自恃だ、自恃だ、
ただそれだけが人の行いを罪としない。

平気で、陽気で、藁束のようにしんみりと、
朝霧を煮釜に塡(つ)めて、跳起(とびお)きられればよい!

   Ⅲ

私の聖母(サンタ・マリヤ)!
  とにかく私は血を吐いた! ……
おまえが情けをうけてくれないので、
  とにかく私はまいってしまった……

それというのも私が素直でなかったからでもあるが、
  それというのも私に意気地がなかったからでもあるが、
私がおまえを愛することがごく自然だったので、
  おまえもわたしを愛していたのだが……

おお! 私の聖母!
  いまさらどうしようもないことではあるが、
せめてこれだけ知るがいい――

ごく自然に、だが自然に愛せるということは、
  そんなにたびたびあることでなく、
そしてこのことを知ることが、そう誰にでも許されてはいないのだ。

   Ⅳ

せめて死の時には、
あの女が私の上に胸を披(ひら)いてくれるでしょうか。
  その時は白粧(おしろい)をつけていてはいや、
  その時は白粧をつけていてはいや。

ただ静かにその胸を披いて、
私の眼に副射していて下さい。
  何にも考えてくれてはいや、
  たとえ私のために考えてくれるのでもいや。

ただはららかにはららかに涙を含み、
あたたかく息づいていて下さい。
――もしも涙がながれてきたら、

いきなり私の上にうつ俯して、
それで私を殺してしまってもいい。
すれば私は心地よく、うねうねの暝土(よみじ)の径を昇りゆく。

 

私はエヴァンゲリオンという作品に、この詩と似た詩情を感じます。何かを犠牲にして、時には自分自身をも犠牲にして望みを叶えようと物語を進めていく登場人物たち。流れるレクイエムは祝福か呪いか、その見分けさえつきません。しかし散っていくその姿は言葉を失うほどに美しい。ひとの心は孤独で脆弱で、いつも何かを渇望しています。器を失って露出した心は、凶暴で、残酷で、非情な姿を見せる。それは同時に、穏和で、慈悲深く、愛情に溢れてもいる。そんなアイロニカルな人性の本質を肯定することこそが、今回の『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』で描かれたテーマではないでしょうか。

 

中原中也庵野秀明と似たような方法論で、表現(expression)を突き詰めようと試みた詩人でした。表現する対象を潰して中身を露出させ、本質を観察し描写する。解剖学の発展が美術の発展を伴ったように、デカダン派の血脈を受け継いだ表現者たちは、対象が眼前に表れるとそれを破壊する衝動に誘われてある種の狂気と見える世界へと入っていったのでしょう。虚構の世界が私たちの代わりに犠牲となってくれているということは、よくよく考えてみる必要のある興味深い問題だと私は思います。

 

今後、象徴主義や耽美主義の芸術や、デカダン派の芸術の話もできたらと思っています。

 

以上、書き手は泉楓でした。

 

下画像【象徴派の代表的な画家 オディロン・ルドンの言葉と作品の模写】

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