縷紅草~ルコウグサ~

金曜日更新のおはなし

遣らずの雨

まえがき【どうも泉楓です。なかなか更新ができず申し訳ありません。今回はとりとめのない雑談ですが、楽しんでいただければ幸いです。】

 

 

f:id:N73758801:20210723155207j:image

 

 

休むのがどうも苦手である。同じ悩みを抱く人は案外多いものだと想像できるが、この悩みへの対処法には個性が出てくるものだと思う。その人の習慣にはその人の色が滲み出るものだ。

 

僕の場合、休むのが苦手な理由はひとつにまとめることができる。ずばり「頭の中の整理が苦手」だからだ。僕の脳みそには、何かを考えているか、ボーっとしているかのどちらかのモードしかない。熱中か忘却。保留という機能が欠けている。

 

この欠陥の原因は「本をよく読むから」ではないかと考えている。脳髄が言葉の湖だとすれば、僕の脳髄は常にせわしなく対流が起こっているようなものだ。浮上と沈澱。誰かが言葉を上手く掬いあげて管理してくれたらいいのに。

 

対処法はある。ノイズの中に身を浸すこと。「木を隠すなら森の中」ではないが、あえて言葉の奔流の中に自身を投げ入れて、ある特定の言葉の存在を相対的に薄めるのである。ラジオを聴くのが最も手軽な手段だろう。

 

だが、意味のある言葉がしんどいこともある。いくらカオスであっても、そのひとつひとつは生きた言葉である。言葉の雨がノイズになってくれないとき、どう対処したらいいのだろうか。そうだ、意味のない集合、本当のノイズに身を晒せばいい。

 

https://youtu.be/R-m8cmAOUpE

 

雨の音を聴くのにハマっている。上のリンクは「Forest of wing」というYouTubeチャンネルの動画である。おそらく最も有名な「自然音BGM」チャンネルのひとつではないだろうか。画質・音質ともに良質なのでおすすめだ。

 

「なぜ雨の音が好きなのか?」

 

これはもう説明した通りである。無意味なノイズ、不規則な音の集合は、頭から余計なものを排除してくれる効果があると思っている。悩みや考え事はおおかた、いま考える必要のないものだ。そうはわかっていても、頭の中から思考を追い出すのは至難の業。これを自然に行える人が羨ましい。いったいどのように行っているのか甚だ疑問である。

 

雨音はこの悩みを容易に解決してくれる。雨音に掻き消された言葉たちは、姿を失い、その魂だけがゆらゆらと浮遊する幽霊のような存在になる。場所を占めてしまう存在が煩わしいとき、存在なき存在としての幽霊は、私たちの良き隣人として独り言を聞き流してくれる。雨音には、人と話したときのような浄化作用があるのではないだろうか。

 

雨音といえば、良寛という有名な歌人の歌にこんなものがある。

 

いにしへを思へば夢かうつつかも夜は時雨の雨を聴きつつ

 

夜雨の音を聴きながら昔を思うとき、それは夢であったのか現実であったのか境がわからなくなる、と僕は解釈する。「雨音を聴く」ということを楽しむ人は今も昔も存在しているのだ。そこに共通した情緒があることを思わずにはいられない。

 

ところで、雨音を聴くことは、絵を鑑賞する行為に似ていると思う。雨音には奥行きがあるからだ。はるか見えない場所の無数の木の葉を弾く雨粒の音、遠くで地面を叩く無数の雨粒の音。

 

それらを背景として、目の前で鳴っている音がある。水溜りの水面を叩く音、住む家の屋根を叩く音、どこかを流れる水の音、溜まった水が大きな粒となって、規則的に地面へ落ちる音。

 

このように、様々な雨音は全体を為して、いまこの耳に入ってくる。雨音は奥行きと陰影を湛えた情景を私たち銘々の脳裏に想起させ、それぞれの態度によってその姿を変えているのだ。それはまさに優れた絵画と対面した私たちの反応と似ていると思わないだろうか。

 

いま蝉の声を聴きながらこの話を書いている。蝉の声も昔から日本人が親しんできた音という意味では、雨音と似ているのかもしれない。

 

けれども僕の中で蝉の声とは、ある特別な意味を持ってしまった音なのだ。8月の暑い夏、蝉の声に包まれて思い起こすのは約80年前に終わった戦争である。直接体験したわけでもない戦争を、どうして僕が想起するのか。それは他でもない「原子爆弾」のせいだ。

 

長崎の街で生まれ育った僕にとって、8月9日といえば「原爆の日」である。蝉の声は戦争で失われた命が、生きたいのに生きられなかったことへの未練を叫んでいるように聞こえるのだ。

 

音や色彩は、意味を持つ言葉と違って形だけのものかもしれない。だから私たちはその内部の空間に何かを感じ取り、それぞれが好きな物事を投影することができる。存在を感じ、存在を受け入れるという行為は私たちが不断に行っているにも関わらず、あまりに当たり前のことなので、忘れてしまいがちな行為ではないだろうか。そんなことを夏の盛りに考えている僕がいた。

 

終わり。