縷紅草~ルコウグサ~

金曜日更新のおはなし

戦争の記録から僕たちはなにを学ぶべきか

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2021年8月9日、11時2分。僕は黙祷を捧げる。長崎に生まれてこの方、この日のこの時間、欠かさないように行ってきた習慣である。1分間の黙祷のさなか、僕はさまざまなことを考えた。いまから76年前の1945年8月9日、11時2分、長崎の町に原子爆弾が投下された。

 

良く晴れた暑い日だったらしい。いまと変わらずセミが鳴いていただろう。いまと変わらず夏らしい澄み切った空気の中で、山の裾野が照り返し輝いていただろう。田には蛙が鳴き、萌えいずる樹木の新芽がみずみずしくその肌を日にさらしていただろう。令和に生きる僕たちが思う通り、田舎の古めかしいノスタルジックな景色がそこにはあったのだと想像ができる。

 

そのすべてが一瞬にして奪われた。色彩が、匂いが、声が奪われた。朝、出勤したばかりの人々であふれた職場の活気も。朝、旦那を見送り、ひとり娘と少し遅めの朝食を取っていた夫人の微笑みも。朝、庭に出て遊んでいた少年や、その隣で草をむしる女性の流す汗も。すべてが一瞬にして灰と塵と影とになった。

 

僕はそれらを直接見たわけではない。白黒の写真・映像の記録や戦争経験者の方の話から知ったのである。長崎では毎年、この時期になると戦争の話を耳にする機会が増える。テレビでも特集されるし、学校では平和祈念のイベントが必ずと言っていいほど開催される。

 

ところが、戦争の記憶は薄れつつあるという。被爆者の高齢化が進む上に、若者のなかでは、8月6日、9日、15日がそれぞれ何の日であるかを知る人が少ないというのだ。僕にとってその話は、にわかには信じがたいことだった。なぜなら、僕は幼いころからこの日を恐れ、何かから隠れるようにこの日を過ごしてきたからである。戦争の記憶は、僕にトラウマとでも呼ぶべきショックを与えるのに充分なものであった。それは忘れたくても忘れられない記憶だったのだ。

 

僕自身の話を少しさせてほしい。小学1年生の夏、夏休みに入るすこし前のことだ。夏の空気に浮き立つような教室の中へ、担任の先生がいつになく慎重な面持ちで入ってきた。午後の授業だったと思う。生徒はみなその時間が、道徳の授業の時間だと思っていた。先生の手には1枚の写真があり、「いまから60年程まえの8月9日、ここ長崎に原子爆弾という一発の爆弾が落とされました。」というような前置きをして黒板にその写真を貼った。背中に大やけどを負った少年がうつぶせになっている写真だった。それをみた周りの友達は、しばらくの間黙っていたが、先生が「前に来て見ていいよ」というと、ざわざわと教卓に歩み寄っていった。僕は躊躇ったが、友達とはぐれないようにと、その後ろをついていった。僕はその写真になるだけ近づかないようにして床に座った。もちろんそれを直視することはできなかった。

 

先生は他にも数枚の写真を僕たち生徒に見せてくれた。見れない写真と見れる写真があったが、僕は怖がっていることを周りに悟られないようにふるまうので精一杯だった。

 

それまで僕の人生において、澄み切って大きく広がる海のような存在だった夏という時期は、それ以降その表情をまるで変えてしまった。どこに死が潜んでいるかわからなくて、恐ろしく底の見えない海のような存在として書き換えられてしまったのだった。僕はそれから「空に戦闘機が飛んできて爆弾を落としていくのではないか」という妄想にとらわれ、夏の空の下に出ていくことを避けるようになった。8月9日の平和記念集会を仮病で何度も休もうと試みたし、登校したとしても集会の途中で「気分が悪くなった」といい、保健室にこもって保健室の先生と黙祷をするのが毎年の恒例になっていた。

 

黙祷をする1分間、振り返ればたくさんのことを考えてきたものだ。さすがに大人になってからは、なにもない空に「きのこ雲」を想像して怯えたり、テレビでみる「原爆の記録」から逃げるようなことはしていない。小学校高学年になって、初めて「原爆資料館」を見学したときは、悲惨な様子を展示しているスペースを逃げるように通り過ぎて、後半にある文章がメインの展示を熱心に読んでいた。それからは写真や映像を避け、原爆を題材にした漫画や小説を積極的に読むようになった。原爆の後遺症について調べたこともあったし、そもそも「なぜ原爆は落とされたのか」ということに疑問を持ち、第二次世界大戦の歴史について調べたりもした。最近は原爆の詩を好んで読むようになった。トラウマは克服された。戦争の記憶にとらわれることはなくなった。戦争の悪夢にうなされることも、いまではほとんどない。

 

さて、本題である。「戦争の記録からなにを学ぶべきか?」という問題を、この夏に僕は考えた。

 

僕が呪いを解くようにして、戦争の記録を調べていくなかで感じたことが3つある。

 

1つめは、戦争はあまりに悲惨すぎるということ。

2つめは、人間は残酷であるということ。

3つめは、人間の残虐性は日常にも潜んでいるということ。

 

まず、1つめについて語ろうと思う。

 

戦争は子どもが学ぶには、しばしば悲惨の度合いが過ぎている。いわゆる「平和教育」が大切だと考えるのは理解できるが、教える側は子どもたちの目線から内容を吟味し、適切な伝え方を考えるべきだと思う。ただ悲惨さを強調するような表現が必ずしもすべての子どもたちに適切なのかどうか。映像や写真は現実を歪みなく伝えるという点で優れているかもしれないが、現実をただ伝えるという手法は表現者の怠慢ともなり得る。表現する対象と、それを受け取る者の性質と向き合い、伝達の手法を考えることは必要だと思っている。

 

2つめについて。

 

これは自分自身を見つめることで気づいたことである。戦争の記録を調べていくなかで、僕は自分の中に、悲惨なものを見ることへの「好奇心」があることを自覚していった。インターネットを見てもわかるであろうことだが、人間の「死」を見ることはひとつのエンタメにさえなっている。人は刺激を好む。「性」がその対象として周知されているように、「死すること」もその対象となり得るものである。僕はこれが世界から戦争がなくならない理由の一側面だと思っている。政治や倫理の皮を剥がしてみれば、熱狂に酔いしれる大衆の、アノニマスなその相貌が見えてくる。僕もそのなかの一人だということを忘れて、平和を考えることはできないと思っている。

 

3つめについて。

 

人間の残虐性は日常にも潜んでいる。わざわざ戦争の記録を開かずとも、人間は残虐だということはわかるのである。何気ない会話の端々に、誰かを差別するような言葉がある。私たちの毎日の生活は、ただで成り立っているわけではない。食べ物も衣服も玩具でさえも、誰かが汗を流して働いた結果、僕らの手元に届いている。ところがそれらを享受することに僕たちは何のためらいも持たない。当然のように贅沢をして、まだ足りないと心のどこかで思っている。犠牲は日々支払われているにも関わらず、僕たちは「戦争反対」というスローガンのもと「平和」に暮らしている。

 

以上の3点を踏まえ、僕が言いたいことはごく平凡なことである。戦争を非日常として捉えているのならば、それは少々認識が甘いということ。戦争の根底にあるのは暴力だ。暴力はさまざまな形に姿を変えて、僕たちの日常に隠されている。そのことを知るべきタイミングが、人にはあるということ。知った上でどう向き合うかを、各人がよくよく考えるべきである。平和という理想へ近づくための一歩がそこにあると、僕は思っている。

 

素直なひとびと(子どものような心を持つひとびと)にとって、暴力は親しみ深い友人でもある。子どもは躊躇なくひとを叩くし、ひとの悪口を言う。子どもたちの普段の「遊び」のうちには、暴力がごく自然な形で溶け込んでいる。大人の遊戯のうちにも、僕たちの心に潜んでいる「嗜虐心」を満たすことを目的とした戯れが散見される。僕たちは自らのうちにある「獣」を檻に閉じ込めて忘れてしまうことを目標としてはいけない。その「獣」を手なづけ、牙や爪によって他者を傷つけないように操ることこそが本来の目標なのである。

 

死と向き合うことは、多くの人々にとって大きなストレスである。僕が幼いころにふさぎ込んでしまったように、必要な準備の整っていないひとが死と向き合うことは、そのひとの心に大きな傷を作ってしまう恐れがある。(上手く忘れてしまうひとも多いであろうが。)

 

僕はここで「現実を直視せよ!」とか「幻想に救いを求めよう」などと言いたいのではない。僕たちが本当に向き合うべきは、自分自身とその相手である。人は然るべきときに然るべきものと向き合う(これは互いに呼び合うためである)ものだと思っている。あなたが何か動かしがたいもの、思わず目を逸らしたくなるようなものと対峙したとき、その対象はあなたの心を映す鏡でもあるということを考えてみてほしい。

 

「戦争の記録から僕たちはなにを学ぶべきか?」

 

ある事実について、あなたが知りたくないと思うのであれば、知らないでおくのもひとつの選択だと思っている。戦争の記録は決して「知らなければならない」というものではないと思う。しかし僕たちが平和について考えるとき、あるいは様々な争いについて考えるとき、向き合わなければならないのは「見たくない現実」かもしれない。あなたがそれを求めるタイミングをきちんと見定めて、然るべきものを見たり聞いたりすることを恐れないでほしいとも思う。希望を語るのであれば、僕たちはきちんと立ち直ることができるはずだ。

 

僕は心から核兵器が2度と使用されないことを願っている。今なお続く戦争も、いつかなくなってくれることを願っている。このことを本当に願うことができているのは、過去の自分が「戦争の記録」から目を逸らさなかったからである。できるだけ多くの人が自分の心と真摯に向き合い、平和を心から望む人がひとりでも増えることを祈念してこの文章を終えたいと思う。

 

以上、書き手は泉楓でした。