縷紅草~ルコウグサ~

金曜日更新のおはなし

私の幸福論 第四部 第一章

 

f:id:N73758801:20210205163240j:image

 

幸福、それは君の行くてに立ちふさがる獅子である。たいていの人はそれを見て引き返してしまう。ーカール・ヒルティ

 

こんにちは、泉楓です。幸福論も第四部まできて、ついにヒルティの『幸福論』に及びます。ヒルティの幸福論を読み、「私の幸福論」として解釈をしていくなかで、私は思いました……。

 

「普段の考え方と違いすぎる!」

 

はい、ヒルティはスイスで生まれ育った敬虔なクリスチャンです。大学では哲学や法学を学び、卒業後は弁護士として職務に励みます。二十三歳の頃はスイス軍の歩兵将校として法務に就きました。四十歳でベルン大学教授となるまでの間に、彼は哲学的探究と信仰心の狭間で頭を悩ませます。

 

神、キリスト、および眼に見えるものとならんで存在する眼に見えない世界と、その世界の秩序を信ずることは、最初は決断の行為であり、多くの人間にあっては、絶望の行為といっていいほどのものである。このような不可思議な存在が真理であり、必然であることが、哲学的になっとくゆくまで待とうとすれば、ひとはけっして信仰にいたることがないのだ。ー白水社 アルフレート・シュトゥッキ著 『ヒルティ伝』より

 

神が存在し、その被造物として存在する世界。この世界の秩序が「神によってもたらされた秩序である」と信じることが信仰の始まりなのだとしたら、それは決断の行為であり、多くの人間にあっては、絶望の行為といっていいほどのものである"と彼は言っているのです。

 

絶望の行為……。哲学的に納得のいく真理を待たずに、世界への認識を信仰に委ねるということ。これは幼い頃からクリスチャンだったヒルティ自身にとっても深い問題だったのでしょう。逆に言うならばそれは、ヒルティは初めから信仰心を、一切の疑いもなく持っていたわけではないということ。彼自身の知性によって慎重に吟味したのちに、それを受け入れたということではないでしょうか。

 

もっともすぐれた哲学といえども、きまって不安におびえているか、それとも悲観主義的である。なぜならば、哲学は、あらゆる場合に十分に働きうる、あるひとつの力の存在をこそ信ずることができない、が、この力によってのみ平和が獲得されるのである。ー同上

 

一八六三年十月は、今まで多くの幻滅や、ふかい悩みによって成熟してきたわたしの精神が、あらたなる深化をもとめはじめた時である。わたしの精神はエルヴェシウスから出発して、あらゆる哲学をとおる大まわりの道の末、すでに一八五三年に予感的にとらえられた、唯一の真なる理念へとかえったのである。ー同上

 

ここに表された"あるひとつの力の存在""あらたなる深化"とは他でもなくキリスト教において表された真理、"唯一の真なる理念"、すなわち神、ではないでしょうか。

 

そう、ヒルティの幸福論の底には常に神への信仰があります。それゆえに日本で生まれ育った私にとって容易には理解できない考え方をしています。それは神がたしかに存在しているということ。神は真なる理念を基にこの世界を創造されたということ。

 

哲学の世界では、しばしば二項対立の問題が議論の場に躍りでてきます。相対主義か絶対主義か。経験主義か合理主義か。善悪、美醜、真偽など。神を概念として扱い、哲学的に語るならば、これらの対立を超えた存在が神となります。神はあらゆる対立を判断することができる唯一の存在なのです。そこに論理があるにしろないにしろ、神は論理を超えた判断が可能だというのです。私たち人間は神の論理が(あるとするならば)理解できないので、人間があらゆる事物を判断することは傲慢な行為ということになります。

 

神について議論すること自体を禁ずる信者もいるようですが、ヒルティは少し違います。神は存在するにしても私たち人間の自由意志がないとは考えていないようです。神の言葉、つまり聖書に記された預言は素晴らしいが、私たちはそれをよく吟味し心からそれを正しいと感じることで正しい信仰を授かることができると考えているようです。

 

神を唯一絶対の存在だと考えるキリスト教の教義は、常に「独断的ではないか」という批判に晒されていると言っていいでしょう。たしかに他の矛盾した論理に対して議論の余地なく偽であると断じる他ないそれは独断的です。しかしヒルティの考えを読んでいるうちに、ヒルティの信ずる神と真理は私たちが抱いているイメージとは少し違うように思えてきたのです。

 

私は前回の幸福論、第三部の最後に次のように語りました。

 

不幸の原因を遠ざけ、幸福の要因に自ら歩み寄っていく。確かに多くの人はこの実践的なプロトコルに従っていれば幸福になれるのかもしれません。

 

しかし、この世界にはそのプロトコルを機能不全に陥れてしまうような不条理な出来事が溢れていませんでしょうか。

 

生まれつき戦争の渦中にいる者、生まれつき飢餓状態にある者、生まれつきあらゆるチャンスが奪われている者。

 

生きづらい、悲しみや苦痛に覆われて前も見えないという人々が、この世界には存在していると思います。ラッセルやアランも言っているように、世界全体が幸福でなければ、私が真に幸福になることはできません。それは逆も然りです。

 

ラッセルやアランが示した幸福論には限界があるのではないか。論理的に徹底して考えられた幸福論はとても素晴らしいが、いついかなる時にも人は幸福になれると示せたのだろうか。

 

幸福になりたいと切実に願うすべての人にとって、もしかして「幸福な人」というのは「不安のない人」ではないのか?という疑問は拭いきれない問いとして存在しているのではないでしょうか。いついかなるときも、全く不安のない人というのは「幸福な人」かもしれませんが、はたしてそのような人は存在しているのでしょうか。

 

わからない。結論は出ないのです。私たち人間は有限ですが、不安は無限につきまといます。どんなに理論武装を施そうとも、他者は私たちに疑問を投げかけ私たちを仄暗い不安の底に落とすのです。

 

ならばどうでしょう。神を信じてみても良いとは思いませんでしょうか?神の示した啓示や忠告、私たちに与えられた行動規範が私たちから不安を取り除いてくれるのならば、信仰も割合悪いものではないと思いませんでしょうか?

 

ヒルティほどの知性の持ち主が、充分に吟味した上で信仰こそが大事であるという結論を出したことは見逃せない事実です。私の胸には、キリスト教の教義が素直で慎ましやかな信仰心をよしとしたのには理由があるのだろうということが、もはや疑われない事実としてあります。

 

本日はここまで、次章からはヒルティの『幸福論』の原典にあたりながら、静かで穏やかな幸福を追求していこうと思います。「現代の預言者」とまで評されるヒルティの言葉たち。人生で重要なのは「中庸の精神」である、とはよく言われることですが、ヒルティの言葉は行き過ぎた極端な思想に対して、まるで意思的に、その均衡を保つために存在しているような気がします。ではまた。

 

人生の幸福は困難に出合うことが少ないとか、まったくないということにあるのではなく、むしろ、あらゆる困難と闘って輝かしい勝利を収めることにある。

 

人間の最も偉大な力とは、その一番の弱点を克服したところから生まれてくるものである。ーカール・ヒルティ