縷紅草~ルコウグサ~

金曜日更新のおはなし

私の幸福論 第二部

幸せだから笑うのではない、むしろ笑うから幸せなのだ。

アラン『幸福論』より

f:id:N73758801:20201204171752j:image

こんにちは、泉楓です。私の幸福論 第二部ということで、今回から「世界三大幸福論」と評されるアラン、ラッセル、ヒルティの幸福論を比較検討しながら、幸福について考えを深めていこうと思います。今回は特にアランの幸福論を取り上げます。

 

冒頭の文章はアランの幸福論から引用したものです。私を含め、疑い深い人にとっては、こうも単純に言われると疑いたくなるような「幸福論」なのですが、私はここにも重要な示唆が含まれていると思います。

 

この文章で重要なのは、受動から能動への転換が行われているという点です。「幸せだから笑う」の文では、主語となる「私」は「幸せ」という原因によって笑っています。対して後半の「笑うから幸せ」という文の中では「私」が笑い、その結果として「幸せ」を獲得しています。アランが主張したいことの一つはここによく表れていると思うのです。

 

1. アランの幸福論

 

さて、アランの幸福論においては「主体性」が幸福の一大要因とされているようです。と言ってもアラン自身は「主体性」が大事だとは語っていません。彼は体系化と抽象化を嫌い、努めて具体的に自身の哲学を語るようにしていたと言われています。そのことから、アランの弟子で同国出身の小説家、評論家であるアンドレ・モーロワは、アランを「現代のソクラテス」と評したそうです。

 

アランの幸福論を象徴するエピソードとして、古代マケドニアアレクサンドロス大王と名馬ブケファロスの話があります。ブケファロスは強靭な身体と美しい毛並みを持つ素晴らしい馬でしたが、どんなに乗馬の腕が立つ者が乗っても、酷く暴れて手がつけられず、とんだ荒馬だと皆から見捨てられていました。

 

暴れるブケファロスを見て若きアレクサンドロスは、父に向かってこう言いました。

 

「もし僕が彼を乗りこなすことができたら、彼を僕の馬として買ってください。」

 

父から承諾を得たアレクサンドロスはブケファロスに近寄り、手綱を掴んだかと思うと素早く彼の背中に跨り、手綱を捌いて彼の顔を空に向けました。するとブケファロスは大人しくなり、アレクサンドロスの言うことに従ったと言います。

 

不思議に思った観衆にアレクサンドロスは言いました。「彼は自らの影に怯えて暴れていたのだ。彼が暴れたら彼の影も暴れる。彼は暴れる影と戦っていたのだ。」

 

f:id:N73758801:20201204174549j:image

 

幸福の秘訣のひとつ、それは自分の不機嫌に対して無関心でいることだと思う。

 

気分は判断力によるものではない。情念(パッション)によるものである。対して幸福は理性の賜物であり、意志、努力、行為によって実現可能な具体的事象である、ということです。

 

情念のほうが病気より耐えがたい。その理由はたぶんこうだ。情念は、わたしたち自身の性格や思想から全面的に起因しているように見えるが、それとともにどうにも打ち克つことのできない必然性のしるしを帯びているのである。

 

情念に対しては、わたしたちはなす術がない。というのは、わたしが愛するにせよ、憎むにせよ、必ずしも対象が目の前にある必要はないからだ。

 

情念は理性によって操ることのできるものではない。ならば情念に捉われて思い悩むことに時間を費やすよりは、あなたのやるべきことに目を向けて、その事物に集中した方が良いだろう。

 

不安や恐怖には必ず原因があるものだ。その原因は往々にして身近なものである。まずは身体的要因を探ってみよう。周りが暗くて不安だ。お腹が空いてイライラする。身体が不潔で落ち着かない、、、。

 

アランはあくまで具体的、わたしたちの生活に沿った知恵としての幸福論を示してくれます。

 

仕事において幸福感を得るためには、自ら率先して課題を解決し、主体性を持って仕事に向き合うべきだと言います。言われたことをこなすだけの労働は苦痛になり得ます。それに対していくら報酬が支払われようとも人は幸福になることができないということでしょう。

 

生活において幸福感を得るためには、幸せな時間を過ごすことが重要だと言います。幸せな時間は自分を「人生の主役」として捉えることで実現可能だそうです。

 

あなたの趣味はなんでしょうか?音楽を聴く、絵を見る、本を読む。あるいは仕事や家事の合間にテレビを見ることかもしれない。お風呂に浸かりながらYouTubeNetflixで動画を観たり、お菓子を食べながらニンテンドースイッチで流行りのゲームをプレイすることかもしれない。

 

アランはこれらの幸福な時間を、さらに深めるために自らを「主役」に置き換えなさい、と言っています。もう言わなくてもわかりますね。自分でお菓子を作って、歌ったり、絵を描いたり、本を書いたりすれば良いのです。ハードルが高いと感じるかもしれませんが、アランならば「考えるより行動しなさい」と言うのかもしれませんね。

 

最後に人間関係です。自分の人生にどれほど満足していようと、人間関係が最悪では幸福だとは言えないかもしれません。とは言えども、「友人をたくさん作りなさい」と言うわけではありません。自分の隣人との関係が良好でさえあれば良いのです。わたしたちの人生において重要な関係はそんなに多くないはずです。

 

アランは「幸福は義務である」と言います。これは人間関係を考えるにあたって重要な示唆であると思います。

 

幸福というものは、といっても自分のために獲得する幸福のことだが、もっとも美しく、もっとも寛大な捧げものである。

 

悲観的になることは、気分、感傷によるものであり、楽観的になることは、意志によるものだとアランは語ります。そのため彼は「幸福であること」とは「幸福になります」と誓いを立てるようなことだと言うのです。

 

幸福は推論できたり、予見できるようなものではありません。まして他人の幸福とは、あなたがどうにかしようとして作用することのできるものではないとアランは考えるのです。

 

例えば、あなたの隣に病気になって苦しんでいる友人がいるとします。友人は病気によって悲観的になり、あなたに対して不機嫌な態度を示すかもしれません。または私なんてダメだ、私に関わらないでとあなたを拒否しようとするかもしれません。

 

アランはそこで、同情したり憐れんだりすることは良くないと言っています。あなたはあくまで楽観的に、明るく振る舞った方が良いのだと。友人にとって本当に必要なのは、憐れみではなく楽観的な意志の力なのだと。

 

(病気の友人に対して)…無関心であれというのではない。そうではなくて、快活な友情を示すことだ。誰も、人に憐みを引き起こさせることを好まない。もし自分がいても、健康な人間のよろこびを消し去りはしないということがわかれば、彼はたちまち立ち直り、元気が出る。信頼こそ素晴らしい妙薬である。

 

アランは礼節の重要性についても言及しています。個人的な話ですが「親しき仲にも礼儀あり」という言葉が大好きです。その本質をアランも語っているように感じました。

 

「礼節を重んじよ」と言っても、堅苦しい伝統的なマナーを守りなさいといわけではありません。自分が人生における主人公であるように、他者についても、その人の人生の主人公であるということを知りなさい、ということだと私は解釈しています。

 

礼節の本質は「行動によって情念を操る」ということだと思います。先程も述べたとおり、情念は理性によってコントロールできるものではありません。ならば行動によってコントロールするしかない。妬みや僻みは他者を尊重する心があれば生じ難いはずです。そのことは頭で理解していても、自分より幸福そうな人を見ると心は揺らいでしまうものです。相手が嫌な人で、自慢をしてきたり、マウントを取ってくる場合は尚更でしょう。なのでまずは行動する。相手に礼節を尽くすことで胸に渦巻く情念をコントロールするのです。

 

今回はここまで。次回はラッセルの幸福論を取り上げます。お楽しみに!

 

人間関係のなかで相手に期待しうる唯一のことは、それはお互いの本性を認め、相手が自分自身であり続けるのを求めることだけである。

 

その人があるがままの姿であるのを望むこと、それが真の愛である。

 

アラン『幸福論』より