イマヌエル・カントの三批判書〜実践理性批判〜
「人間は自由の刑に処されている」
サルトル(フランスの哲学者、小説家、劇作家 / 1905~1980)
こんにちは、泉楓です。
今回も日々の雑感をまとめていきます。「自由」について考えていると様々な場面でその見えざる影響力を感じとることがあります。
例えばこんな場合は如何でしょうか……
とある休日の昼頃、あなたは綺麗な並木路を歩いてるとします。その路はあなたのお気に入りの路で、そこを歩く時、あなたはいつも上機嫌です。規則正しく敷き詰められたレンガで完成されている歩道の柄を楽しんでいると、目の前を歩く背広を着た中年の男性の手から、一枚のビニール袋が落とされました。
「ゴミのポイ捨てかな?」と思いましたが、ビニール袋にはどうやら中身が入っているようなので、あなたは勇気を出して男性に声をかけます。
「あの!落としましたよ……!」
無言で振り返った男性に、あなたはビニール袋を拾って手渡します。すると男性は小さく舌打ちをした後、さらに小さく会釈をして去って行きました。
……さて、このような経験をしたならば、大抵の人は気分を害してしまうことでしょう。見事な景色の邪魔をしてしまうような行為は到底許されるものではありません。義憤に燃える腹の中。しかし、そこに生じた感情は怒りだけでしょうか?
端的に言えば、男性の行動とあなたの行動を客観的に批判したとき、必ずしも男性が愚かであり、あなたが正しいとは断定できないということです。男性がなぜそのような行動に出たのか、あなたには推測することしかできません。
男性はたまたま要らないものを落としてしまっただけで、もしかしたら落としたこと自体に気付いていないかもしれない。あるいは仕事や家庭に急用があり、内心落ち着かない状態で先を急いでいたのかもしれない。
対してあなたは、自分が気に入っている路が汚されたことに戸惑いを感じ、乱された感情を落ち着けるための行動に出た。あなたは余暇を楽しんでいた。あなたにとって、ビニール袋を拾ってゴミ箱に捨てることなど造作もないことです。なのにどうして、男性に対する憤りを禁じ得ないのでしょうか。
自由の問題は、個人を抜け出して社会の中で語られる場合に、複雑怪奇な様相を示すことで、度々私たちを困惑させているようです。私の自由は甘美であるが、他者の自由は認めがたい。自由の議論はいつも、螺旋状に上昇を続けるだけで、目指すべき到達点を見失ってしまうように思えます。
イマヌエル・カントはその著書『実践理性批判』において、次のようなことを書いています。
汝の意志の採用する規律がつねに同時に普遍的立法の原理としても妥当するように行動せよ。
この一文は、カントが提唱した倫理学における根本原理の特徴が表れた一文です。一般には「定言命法」という名でよく知られていますね。「綺麗な路であれば、ポイ捨てするな。」というような条件付きの命令ではなく、無条件に「ポイ捨てするな」という絶対的命令として妥当な行為を選択しなさい、というような意味です。
今回は、この一文を中心に据えて自由の概念を考えてみたいと思います。「前置きが長い!」という読者の突っ込みを華麗に聞き流しながら本編の始まりです。
私たちが通常考えている自由とはどのようなものでしょうか?
「好きなときに好きなことができる」
これが自由の条件だ!と言えば多くの人が頷くことだと思います。しかし、カントはここで首を横に振るのです。
「お腹が空いたから食べる」「眠いから寝る」「寒いから服を着る」というような人間の行動は、カントに倣ってみると自由ではありません。なぜならば自ら考えて理性的に行動しているとは言えないからです。カントは人間が外部の因果律に支配されて生きている状態を自由だとは認めませんでした。
カントは人間が判断・行動するときに働く理性を「実践理性」と呼び、これを行動原理とする行為の中でこそ、人間は道徳的かつ自由であると提唱しました。
ここで前回の『純粋理性批判』における人間の認識の仕組みを思い出してみましょう。
カントは人間が主観的に心の中で描いている像のことを「現象」と呼び、人間の外側の客観世界にある事物を「物自体」と呼んで区別しました。
「物自体」は認識不可能な物質の広がりであり、人間はそこから受け取る様々な信号を認識能力を以って処理するのだと考えたのです。
*前回の記事より引用
カントは「自由」とは「物自体」と同様に認識不能な世界にあると考え、その世界のことを「叡智界」と呼びました。そして人間が「行為の主体」として行動するならば、人間は叡智界に存在できると考えたのです。
外部の因果律に従って行動した場合、その人間には責任が生じません。自らの意志というよりは、外部の原因に支配されて行動しているからです。反対に行為の主体として行動したならば、その人間には責任が生じます。「私は〜せよ。」というふうに、自らに絶対的な命令を与えている限り、人間の主体性は保証されているからです。他ならぬ「私」が判断した物事の結果なので、責任は「私」にある。
こうして叡智界に存在している人間は自由な状態にあると言えます。そうでない人間、行為の主体になれない人間は不自由な状態にあるとカントは考えるのです。
私はカントと同様に、人間一人一人の自由意志が存在することを信じています。そして人間が「私」を主体として判断し、行動することができる存在であることを切に願っているのです。それは「私」ひいては「他者」が皆、対等の存在であること、そしてその尊厳を担保する原理であるからです。
……今回はここまで。
このように読み解いて判るとおり、カントの三批判書は現代においても普遍的な問いかけを持つ哲学書なのです。どのような時代にあっても、この哲学書を読んだ人々が自由と平和への希望を見出せますように……。
カントの三批判書については、今後『判断力批判』の記事を書く予定です。今回注目していた「自由」とはあまり関係性が見出せずにいるので、また他の良い機会を待とうと思っております。
ではまた。
真実は、すべての人が自由になるまで誰も自由にはなれないということ。
マヤ・アンジェロウ(米国の詩人、作家、公民権運動家 / 1928~2014)
Joseph Maurice Ravel 〈 Jeux d'eau 〉 モーリス・ラヴェル「水の戯れ」
こんにちは、ねむろえみです。今日から私の好きな作品や関心あるもの、おすすめしたいものを書く予定です。当面は水に関するクラシックの音楽、主にピアノ曲について書くつもりです。理論的なことより、感覚的なことを主観的に語るのが中心になるので、気楽に読んでいただけると幸いです。
私とラヴェル「水の戯れ」との出会い
この曲を私が初めて耳にしたのは、多分中学生の音楽の授業でした。「今日はクラシックをみんなで聴いてみましょう」というような話の中で出てきた音楽だと思います。教科書にも載っていました。音楽室の後ろに並ぶ作曲家の中にはいなかった気がします。(ちなみにドビュッシーはありました。)中学生の私は、ピアノ曲が基本的に好きだったので、始めから興味を持って聴くことができました。最初の印象としては、「なんだか聞いたことのないような響きのする音楽だ」と思いました。流行のJ-POPも洋楽も、クラシックなら古典ロマン派の楽曲なども多分少しずつは聴いていたのですが、ラヴェルのような音の響きのする音楽は初めてでした。水がきらきらしている感じがして、すごく綺麗な音楽だとその時感じました。
音楽の聴き方がよく分からない
音楽の聴き方は多様ですよね。あなたはどんな聴き方をしていますか。曲によってその聴き方を変えることはありますか。私はクラシック音楽の聴き方は難しいなと思うことがあります。基本的には感覚的でいいと思っていますが、背景を知ると、より面白く聴けたり、良さを再度発見できたりするために感覚だけで楽しむのはもったいないと感じることがあるのです。楽譜を読んだり、アナリーゼしたりしてみると、作曲者の創意工夫や、すごいなと思う部分が見つかることがあります。その中で、例えばタイトルがはっきりと今回のように「水」をモチーフにしたと考えられる音楽は水っぽさとは何か考えながら鑑賞しますよね。では「作品○○-○」みたいな音楽はどう鑑賞したら良いのでしょう。そもそも、先ほどの水のイメージを抱きながら鑑賞する方法をとると、見えてくる世界が制限されるのではないでしょうか。
鑑賞者には鑑賞の自由が与えられていると私は思います。どんな風に鑑賞してもいいし、合わないなと感じたら鑑賞しなくてもいい。だから何が正解かという問いはあまり重要じゃないのかもしれないです。でも、作り手の望みや批評家の話はその限りではないかもしれませんね。「失恋ソングを聴いて、感傷的な気分に浸る」というような情緒に偏った聴き方をするのはどうなのか。音楽を文学のように聴くことは音楽そのものの可能性や発展性を挫くことになるのではないか。そんなことを考えた経験が私にはあります。背景を知ったり、理論を学んだ上で分析的に聴いたりするといったことが、もし音楽を楽しむことの妨げになるのならやるべきではないと私は考えるのでしょうけど、音楽の良さが多面的に見えてくるからやめられないのです。ただ、知識を獲得することで、音楽の世界が閉鎖的になってしまうのなら、やっぱりそれはよくない。その辺りのことを考えながら、多くの人が音楽を、そして芸術作品をよりよく鑑賞していただければと切に願っています。私は「この作品はどんな鑑賞の仕方をすると面白いのだろう」、「これは書くべきことなんだろうか」と迷いながら、好きな芸術作品について書くのだということを最初に伝えておきます。
不思議な響きについて
印象主義と称される音楽には、なんともいえない音の響きが多く登場します。もちろんこれは、作曲家が意図してやっていることですが、どうしてそういった音の響きが登場したのでしょうか。ちょっと時代背景を覗いてみましょう。
フランスの音楽はバロック期から19世紀半ばまで自国の名作曲家がほとんどいませんでした。そんな中、1871年に「フランスにもドイツに負けない正統的な器楽文化を作ろう」という名目で国民音楽協会が設立されます。国民音楽協会は、ドイツ音楽の主流となっているソナタ形式やフーガ、交響曲、弦楽四重奏曲を導入しようとし、ドビュッシーを代表とする印象主義と称される作曲家たちはそれをベースにしてフランス音楽独自のアイデンティティの構築を目指しました。
ラヴェルの「水の戯れ」の場合、形式はドイツ音楽の主流でもあるソナタ形式ですが、第一主題の和声を見てみると、従来のロマン派的な3度堆積ではなく、4度音程や5度音程を用いていることが分かります。他の部分でも古典っぽさも継承しているところがあり、それでいて新しい表現を目指していることが全体を通してうかがえます。
先ほど示したように時代背景ももちろん関係はあるのでしょう。しかし、そもそも芸術は新しい発見や、馴染みのあるものごとから何か再発見をして、新たな表現に繋いでいくことが一つの目的だと考えます。つまり、従来の表現に満足せず、新たなことへ挑戦することが大事なので、それまでの表現を尊重しつつ、新たな美の構築を目指すのは自然な流れだと私は思います。
理論的な詳しい話はさておき、冒頭の1小節目2小節目の音の響きを聴くと、ラヴェルらしさを感覚的に捉えることができると思います。「良いな」「綺麗だな」と私が思える箇所はいくつかありますが、やはり始めの1、2小節でぐっと心を掴まれた記憶があり、繰り返し聴いても印象的なモチーフだなと思えます。曲を知った当初、つまり和声をよく知らない時に「どうしてこの曲はこんなに美しくて耳に残る音楽なのに、頭の中で再現したり、鼻歌で歌ったりすることができないんだろう」と不思議でした。輪郭があるようでないようなところが掴めるようで掴むことのできない水の流れのように感じられて良いなと思いました。
〈 Jeux d'eau 〉 の直訳は噴水?
この曲を聴いて勝手に想像していたのは小川の流れのようなものだったのですが、どうも原題から察するに噴水の水の動きの描写なのではないか、と後から気づきました。(次から次へと表情を変える水の流れの描写という意味では遠くはないのですが。)
「水の戯れ」について調べてみると、通常は「噴水」と訳すらしいということが分かりました。フランツ・リストの曲に「エステ荘の噴水」〈Les Jeux d'Eaux à la Villa d'Este〉があります。もしかしたらこの曲に対するリスペクトの意味でつけられたタイトルなのかもしれません。
好きな演奏者
クラシックで面白いのは、演奏者によって音楽の印象が違って聞こえるところだと思います。ラヴェルのピアノ曲はドビュッシーの次に好きだったので、手当たり次第著名なピアニストの演奏を聴いてみました。良し悪しではなく、これは完全に私の好みなのですが、ラヴェルはルイ・ロルティの演奏が好きだなと思います。曲によってまた変わってくるのですが、色彩豊かな表現でありながら、あまりテンポを変えるべきでないと思う箇所のテンポを崩すことなく弾いているのを聴いて、良いなと感じました。ラヴェルは弾きながら書いた感じがしないので、時にメカニカルな印象を受けるのですが、それをほとんどそのままメカニカルに体現している奏者と、そうでない奏者がいて、ロルティは部分部分で後者かなと感じます(詳しく伝えるのが難しいので割愛しますが、結果的に後者っぽい感じがしました)。良くも悪くも細かな部分でいろいろな動きや色を感じ取ることができます。ラヴェルのピアノ曲集のCDを出していることもあって、録音環境も良く、まとめて聴ける手軽さからしてもロルティは良いと思いました。
音楽と絵画と水
音楽は時間芸術といわれます。そして水の流れも時間と共に変化するため、音楽と水の流れは相性が良いのではないでしょうか。絵画も印象派期になると、画材の発展により、光に溢れた色鮮やかで華やかな表現が可能になりました。光を反射する水は、やはりよいモチーフになったのだと思います。音楽だけでなく絵画にまで水の表現が印象派の時代に多く残されたことは、偶然なのか定かではありませんが、そんな水の描写の多い印象派の芸術には私は甚く惹かれるのです。
余談
メモ代わりに自分のために残しておきたいことがあります。誰かがラヴェルは縦の動き、ドビュッシーは横の動きが云々という話をどこかで耳にしたことがあり、それが何なのか気になりながら意味があまりよく分かっていません。縦の動きというのは和声のことで、横はリズムやスケールといった話なんでしょうか。ラヴェルとドビュッシーは比較されることもしばしばあるのですが、私には近い時代を生きた二人であるとはいえ、何をどう比較したら良いのか見当もつかないままです。ただ、勝手なイメージとしてラヴェルの音楽を聴いていると孤高な感じがしてくるのに対し、ドビュッシーの音楽はいつも人の気配がなんとなく感じられるなと昔から思っていました。彼らのことを調べたときにやや納得したのですが、それでもどうして音楽がそのように聞こえたのかは分からないままです。
今回はラヴェルの「水の戯れ」について書いてみました。改めてこの曲を聴いて何か感じていただけたら幸いです。抱くのは何ともいえない感じで構わないのです。言葉にできなくてもいい、むしろその言い淀みの中に重要なことが潜んでいるかもしれません。私にとって重要なのは、各々の気づきや再発見があるかどうかということなのです。
次回はフランツ・リストの「エステ荘の噴水」について書く予定です。ではまた。
参考
楽譜
Jeux d'eau (Ravel, Maurice) - IMSLP: Free Sheet Music PDF Download
音楽 (Performed by Jean-Yves Thibaudet)
Ravel - Jeux d'eau, Sheet Music + Audio
イマヌエル・カントの三批判書
あらかじめ死を考えておくことは、自由を考えることである。
モンテーニュ(フランスの哲学者、モラリスト / 1533~1592)
こんにちは、泉楓(いずみかえで)です。こちらのブログでは、好きな文芸、アート、音楽の紹介や、それらを観賞して日々感じたこと、考えたことをまとめていこうと思います。
流れゆく雑感を書き留めておきたいという希望から始めたものなので、考察や実証の行き届かない部分もあるとは思いますが、どうかご勘弁ください。
それでは本編です。
イマヌエル・カントの三批判書
18世紀ドイツの哲学者イマヌエル・カントは、人間の認識能力を批判的に論じることによって、人間の持つポジティブな可能性を明らかにしようとした人物です。彼の言葉や文章に触れることで私が受け取ったひとつの問題はこちらです。
『自由の意味とは……?』
自由という名の旗の下に、現代社会は今の形を獲得してきました。自由という概念の及ぼす大きなうねりは、それを煽る者もそれに抗う者も巻き込んで、現代に住む私たちにまで波及していると言えるのでしょう。
では、自由とは本当に良いものなのか?
……と、私は疑問に思ったのです。その疑問の解答を模索するためにも、自由とは一体何なのか、その意味と価値を吟味したいと私は思っています。その第一歩に示唆を与えてくれた文章、それこそがイマヌエル・カントの三批判書だったのです。
- 人間の認識の仕組み
まず、カントは著書『純粋理性批判』において、人間の理性についてその性質を吟味しています。
次に示すのは、人間の認識能力を表した私のイメージ図です。
カントは人間が主観的に心の中で描いている像のことを「現象」と呼び、人間の外側の客観世界にある事物を「物自体」と呼んで区別しました。
「物自体」は認識不可能な物質の広がりであり、人間はそこから受け取る様々な信号を認識能力を以って処理するのだと考えたのです。
さらに認識能力は二段階に分けられ、それぞれを「感性」と「悟性」と名付けました。「感性」は受け取った情報から、時間と空間という枠組みの中で「直観」を形作ります。「悟性」は受け取った情報を「カテゴリー」に分け、判断を行う役目です。
感性を受動的認識能力だとするならば、悟性は自発的認識能力だと言えるでしょう。
「カテゴリー」というのは人間が物事を考える際に使っている思考のパターンだと捉えて良いと思います。カントはカテゴリーを12のパターンに分類しました。
- 量のカテゴリー
- 単一性
- 数多性
- 総体性
- 質のカテゴリー
- 実在性
- 否定性
- 制限性
- 関係のカテゴリー
- 実体と属性
- 原因と結果
- 相互作用
- 様相のカテゴリー
- 可能、不可能
- 現存性、非存在
- 必然性、偶然性
*それぞれの具体的な例については割愛致します。
カントは人間の認識能力を上記のように分析することで、感性の次元で直観的な時間・空間把握を行い、悟性の次元でカテゴリーにより判断が行われると説明しました。
重要なのは、これらの能力が人間に先天的に備わっており、経験を必要とせずとも、カントの分析した認識能力によって物事を捉えることができるということです。
もしもカントのこのような知見がなければ、人間は経験によって得られた情報に基づいた判断しか下せないということになります。人間が観ている主観世界の外側に一切の人間の思考が入り込めないということは、人間の自由意志の存在を認めないということになりかねません。
もうひとつ重要な点があります。カントがこのように認識能力を、『私』を中心に据えて考えたということです。『私』が見て、触れて、嗅いで、聴いて、感じたことを『私』という独立した個体が統合し、判断することでカントが分析した認識は成り立っています。これこそ自由の根本原理なのです。(だと私は信じています。)
今回の記事はここまで。カントの三批判書に関する記事はいずれ続編を書くと思います。
稚拙な点も散見されるとは思いますが、皆さまのお暇に、知的な風味のするお茶菓子を添えられたのであれば幸いです。ではまた。
人間を自由にできるのは、人間の理性だけである。人間の生活は、理性を失えば失うほどますます不自由になる。
トルストイ(ロシアの小説家、思想家 / 1828~1910)