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金曜日更新のおはなし

『映画 ドラえもん のび太の新恐竜』Ⅱ

 

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画像引用元:(c)藤子プロ・小学館テレビ朝日・シンエイ・ADK 2020

 

こんにちは、泉楓です。今回は前回の続きですね。『映画 ドラえもん のび太の新恐竜』の魅力について語っていきます。この映画は大人の方にオススメしたい!という理由を3つ挙げていました。まずはそこから振り返りましょう。

 

理由1 懐かしさ 定番の展開とお約束 

理由2 アニメーション 動きで表現する生命の羽ばたき

理由3 テーマ性 物語が深めるメッセージ

 

理由1については、前回の記事に示したとおりです。劇中にはドラえもんシリーズにおける鉄板ネタが存分に使われています。しかし、それが観ている人のほとんどにしっかり伝わっているであろうという事実は『ドラえもん』という作品の絶大な人気度を示していますよね。すごいです。

 

今日は理由2から話し始めていきます。それでは本編です。

 

 

理由2 アニメーション 動きで表現する生命の羽ばたき

 

既にご覧になった方なら共感いただけると思いますが、本作品の大きな魅力のひとつは、素晴らしいアニメーションによるOPとEDです。

 

本作品に出てくる恐竜は3DCGによるアニメーションと従来の二次元アニメーションで書き分けられています。二次元アニメーションで描かれる恐竜は、デフォルメされた可愛らしい見た目(キューとミューそのほか、キャラクターとして役割を持った恐竜が対象)であるのに対して、3DCGで描かれる恐竜はリアル志向の迫力ある絵面に仕上がっていました。

 

本作品OPでは、その3DCGを存分に使用した「生命の進化」をテーマとする短いアニメーションで、短いながらも高密度に情報が詰まったハイクオリティなものでした。序盤からこのOPで観客の心をグッと掴んできます。私も鳥肌が立ちました。ずるい。

 

OPはその作品の軸を提示するための大切な要素だとも言えます。水のなかに浮いている泡から始まり、幾度も絶滅と進化を繰り返して巨大な恐竜へと飛躍していく。まさに本作品が何を伝えたいのかをギュッと詰め込んだ名OPだと言えるのではないでしょうか。

 

続いてED。こちらは二次元アニメーションで描かれています。曲と合わせてスタッフロールが流れていく定番の型ではありますが、ここでもメッセージ性のあるアニメーションが観客を魅せてくれます。

 

OPと同様に泡から始まる生命のリレーが、画面左端を駆けている生物のシルエットによって繋がれていくというものです。私が注目したのはこのアニメーションの後半部分。キューの仲間らしき生物のシルエットが鳥類のシルエットに変化し、さらに猿へ、さらにのび太へ、とバトンを繋いでいきます。のび太が走っていると画面左端からジャイアンスネ夫、しずかちゃんが現れて並走するようになり、最後は画面右端からドラえもんが現れ、みんなで画面中央に集まり観客に向かって手を振る。映画はこの後に予告を挿んで終わりです。

 

演劇では観客から見て舞台左側が下手、右端が上手と呼ばれます。基本的に物語は下手から上手へと展開します。本作品のEDは下手側が過去、上手側が未来を表しているものだと思われます。とすると、ラストで上手側からドラえもんが現れ、進化のバトンを繋いできたのび太たちを迎えるという構図は何か製作者の意図が感じられますよね。映画の締めくくりとして、とても考えられたEDかなと私は思いました。

 

本作品全編を通してですが、「飛躍」というキーワードが根底に流れているなという感じを受けました。実際キューとミューが飛ぶシーンは、繰り返して見ることができます。

 

本作品は、キューが上手く飛べないということと、生命の進化には比喩的な意味で「飛躍」が重要な役割を担っているということを上手く組み合わせて、私たち観客に多様な問題を提起することに成功しているという点で、私の心に強く残る作品となりました。

 

おっと、勢い余って理由の3つ目に頭を突っ込んでしまうところでした。一旦区切って次に進みます。

 

理由3 テーマ性 物語が深めるメッセージ

 

ここからは、私が気になった場面を取り上げながら本作品のテーマについてさらに深掘りしていきたいと思います。

 

川村は『のび太の恐竜』と同じく卵を拾ってきて孵化させる展開はわざとであり、双子が生まれてくる瞬間からパラレルワールドだとしている。

 

……(中略)……

 

「恐竜」に加え取り上げられたテーマは「進化」と「ダイバーシティ(多様性)」である。川村は本作の発表時「多様性が叫ばれる中、それが綺麗事ではなく、人類の進化への歩みであることを語りたい」とコメントしていた。また、別のインタビューでは多様性が「弱者と共存しましょう」という話になりがちなことに違和感を覚えたこと、それが綺麗事でなく生物がサバイブするための必要条件だということをエンターテインメントとして描いたと語っている。

 

今井も他者との違いが進化の本質とし、そこに「人と人の違いをプラスに考えよう」といったダイバーシティの要素を重ねることで、恐竜を通しそういった部分を描けるのではないかと気付いたという。

引用元:「ドラえもん のび太の新恐竜」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2020年10月5日 (月)14:04 UTC、URL:https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ドラえもん_のび太の新恐竜

 

上に引用した文章からわかるとおり、「進化」「多様性」そして「弱さ」は本作品において重要なテーマです。

 

個人的に気になったシーンとしては、冒頭でのび太が「恐竜の卵らしき石」をみつけて大はしゃぎしながら帰宅するシーン。のび太が慌てるあまり足がもつれて、卵を放り投げながら豪快に転ぶという場面があります。

 

一見すると「のび太はドジだなぁ」的な笑えるシーンにも思えますが、私が気になったのはその後です。結構な高さから落下した卵の化石、カメラは地面にぶつかりコロコロと転がる石に寄っていきます。この場面が少し長すぎる気がしました。まるで何か言いたげだと感じた私は、ある妄想を膨らませます……。

 

生まれつき身体が小さく、羽毛も未熟なキュー。このことは前回の記事にも書いたのですが、キューの身体に弱さをもたらしたのはのび太ではないか?と私は思ったのです。

 

しかしながら、のび太が卵を落としたのは化石の時点です。そのあと『タイムふろしき』を使って卵を生きた状態(生きていた時代?)に戻します。ドラえもんの道具によって時間と空間を往来しすぎて色々矛盾があるような気もしますが……。

 

タイムパラドックスを解決するには並行世界(パラレルワールド)の概念を持ち込めば良いのだ!……まあ川村元気さんも「双子が生まれてくる瞬間からパラレルワールド」だと発言しているようなので、矛盾はないのかもしれません。

 

もしも、キューの弱さがのび太の過失によるものだとしたら……。物語はさらに違った表情を帯びるものになりますね。

 

もうひとつ気になった場面があります。この場面は明らかに親世代向けのメッセージを含んでいるのでしょう。キューとミューを元々いた時代に帰そうかと葛藤するのび太のび太の胸中には親ならではの悩みが生じていました。

 

「未熟なキューは恐竜の時代で自立して生きていけるのだろうか……。」

 

キューとミューのためを思い、帰すことを決心するのび太に対し、キューは無邪気にのび太が買ってきた餌でありキューの好物である「マグロの切り身」を要求してきます。

 

「まるで飛べなくても平気だって言ってるみたい……。」

 

キューの態度は愛らしく、観客も思わず「厳しい自然界に帰さなくてもいいのではないか?」と思ってしまいます。観客のほとんどが親子であることをわかっていてこの演出。胸にくるものが大きすぎて少し苦しいくらいでした。

 

補足1 SF(すこし ふしぎ)としてのドラえもん 

 

ドラえもんの道具の中には、現代の科学理論から推論可能なものから、SFと呼ぶにはあまりにファンタジー寄りのものまで様々です。

 

代表的な例を挙げるなら、前者は「タイムマシン」。後者は「どこでもドア」など、でしょうか。しかし、大人の私たちは合理的な視点も持たなければなりません。「タイムマシン」は未来へ行くことはできても過去に戻ることはできないかもしれないし、そもそも「ドラえもん」自体、現代の人工知能技術の延長線上に実現できるのか怪しいところです。

 

ですから、原作者である藤子・F・不二雄先生は「SF(すこし ふしぎ)」という造語によって自らの作品を言い表したのでしょう。

 

では本作品において「SF(すこし ふしぎ)」要素がどのように活かされているのか。そんな視点で楽しんでみるのも私は悪くないと思います。

 

本作品のSF要素のひとつは、ドラえもんひみつ道具が生物進化の過程における「ミッシングリンク」を埋める役割を担っていることです。「ミッシングリンク(失われた鎖)」とは、生物進化の過程を「くさり」のように連鎖したものと見做したときに、連続性を持たない部分のことがそう呼ばれています。

 

有名な話では、猿から人間への進化ですね。人間と猿の大きく異なる特徴は肥大化した脳です。ダーウィンの進化論が正しいとするならば、猿から人間へ進化する過程の化石、中間種が存在するはずなのですが、今のところそれは見つかっていません。

 

本作品中では考古学の博士らしき人物が登場し、「ミッシングリンク」について何度か言及しています。彼の語るとおり、恐竜の進化についても「ミッシングリンク」が存在します。恐竜は6600万年前、ユカタン半島に衝突した隕石によって絶滅したと言われていますが、一方で現代生息している鳥類の祖先は恐竜だと言われているのです。恐竜から鳥へ。いったい恐竜はどのようにして生き残り、どのような変化を遂げて鳥類になったのか。この問題は現在も謎のままです。

 

科学理論上の空白には空想が入り込む余地があります。本作品はこの「失われた鎖」を繋ぐ物語になっているのです。そして物語を飛躍させる鍵となるのが、のび太とキューが共有している「弱さ」であるという構造は、「多様性」という議題が頻繁に語られる現代において大切な視座を提示しているものだと思うのです。

 

今回はここまで。次回は「生物の進化」について、私が考えた内容をまとめたいと思っています。ではまた〜。

 

 

「無知というのは、しばしば知識よりも確信に満ちている。科学によってこれやあれやの問題を解決することは絶対にできないと主張するのはきまって知識がない人である。」

チャールズ・ダーウィン (イギリスの自然科学者、地質学者、生物学者 / 1809〜1882)

『映画ドラえもん のび太の新恐竜』

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画像引用元:(c)藤子プロ・小学館テレビ朝日・シンエイ・ADK 2020

 

こんにちは。先日『映画ドラえもん のび太の新恐竜』を観てきました。泉楓です。

 

……え?子どもっぽい?

 

いえいえ。この映画は「ドラえもん50周年記念」として製作されているだけに、子ども向けながら、幼い頃からドラえもん関連作品に親しんできた大人たちこそ楽しめる作品だと言えると思うのです。

 

*ちなみに今作は、ドラえもん長編映画シリーズとしては40作目。第1作目はいまから40年前に製作された『映画ドラえもん のび太の恐竜』だそう。メモリアル!

 

子どもたちの付き添いのつもりで映画館を訪れた大人が思わず泣いてしまったアニメ映画と言えば『映画クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲』がまず初めに思い浮かびますが、本作もなかなかの強者。かく言う私もめちゃくちゃ楽しみました。

 

なので今回は『映画ドラえもん のび太の新恐竜』を大人の視点でレビューしたいと思います。「この作品は大人も観るべき作品だ」という理由を3つ挙げることで、本作品の魅力を掘り下げていくつもりです。それでは、本編です。

 

(以下ネタバレを含みます)

 

https://youtu.be/PbINQ0HV158

 

理由1 懐かしさ 定番の展開とお約束 

 

物語の前半は『のび太の恐竜』と同様に、のび太が恐竜の卵を発見するところから始まります。ジャイアンスネ夫からのいじめ、「恐竜の化石を見つけてやる!」と大口を叩くのび太、たまたま見つけた卵の化石、それをひみつ道具「タイムふろしき」で包んでみると……!

 

漫画版ドラえもんから現代のアニメ版ドラえもんまで引き継がれたベタな展開とキャラクターの個性が存分に盛り込まれています。

 

物語の主役、ドジで間抜けだが、純粋で勇気のあるのび太のび太を導き、物語を動かすドラえもん。「のび太のくせに」と言いつつ、冒険の匂いを嗅ぎつけると目の色の変わるジャイアンスネ夫。「のび太さん」を見守り、寄り添うしずかちゃん。

 

「追い込まれたドラえもんが慌てて取り出した道具は見当違いのガラクタである」という伝統のギャグシーンをはじめ、ドラえもんシリーズに親しみのある方なら誰もが懐かしさに顔をほころばせてしまう要素がテンポよく展開されていきます。

 

本作の特筆すべき部分は、卵から生まれた恐竜が双子であり、腕に羽毛が生えた新種の恐竜であること。そして双子のキュー(♂)とミュー(♀)のうち、キューは発育が未熟であるということです。このことが本作の問いかけであり、観賞する際の多様な視座を用意していることは明らかでしょう。

 

のび太が彼らを育てるなかで、彼らはその羽毛のついた腕を広げ、滑空するという飛行能力を持っていることがわかります。活発で身体も大きく、元気に飛びまわるミューに比べて、臆病で身体が小さく羽毛も未発達なキューはうまく飛べません。

 

*おそらく尻尾が短いことも飛べない原因のひとつ。キューと同じ種の恐竜は、尻尾を伸ばしその先端に生えた大きな3対の羽毛で飛行中に体勢を制御しているものと思われます。

 

不器用なキューに自分に似た影を見出したのび太は、母親のような思いで世話を焼くようになります。のび太はキューがうまく飛べるようになるために、様々な工夫をこらして練習を助けてあげますが、なかなか思うようにはいきません。キューは次第に飛ぶ練習を忌避するようになり、懸命なのび太とのすれ違いをみせます。

 

ドラえもんから飼育の限界を指摘され、キューとミューを彼らの仲間が生きているであろう白亜紀に返すことを決心するのび太でしたが、与えられる世話に依存し甘えてくる未熟なキューが、はたして野生の世界で自立できるのか?という不安を密かに抱きはじめていたのです。

 

恐竜の世界を冒険する一行は、様々な困難をドラえもんひみつ道具でなんとか切り抜け、ついにキューの仲間を見つけることに成功しました。しかしキューは群れに馴染めないだけでなく、一際身体の大きいオスの個体から威嚇、攻撃されてしまいます。

 

*キューの仲間である新種の恐竜は群れで子育てをするのではなく、オスとメスでつがいを組み、木の上に鳥の巣のような場所を作って子育てをするようです。彼らにとって飛べないということは、子育てができないだけではなく、自分の餌も取れなければ、外敵から身を守ることもできないということ。キューを群れから排除しようとする描写は、彼らが他の恐竜と比べて高い知能と社会性を持っているということを暗に示しているのだと思われます。

 

「弱いからって仲間外れにするなんて……そんなの……酷すぎるよ!」

 

キューに対して彼の弱点を指摘し、激励するのみであったのび太は、野生の世界で生きていくことの厳しさを噛みしめた後、キューに寄り添うように自らの態度を改めます。

 

のび太とキューが肩を並べて飛ぶ練習を繰り返すシーンはとても感動的です。その頭上を巨大な隕石が禍々しい光を放ちながら流れていきます。一行はここが6600万年前、恐竜が絶滅する直前の白亜紀であることに気が付きます。運命の歯車は止まることなく回ってしまうのです。

 

今回はここまで。時間と体力の限界が故に、本来ひとつの記事にまとめるべきところを、今回を含めた前編と後編にわけさせていただきますことご容赦ください。なるべく早く後編が更新できるように努力します。

 

『映画 ドラえもん のび太の新恐竜』は大人も観るべき作品だ。理由の残り2つをここに示しておきます。

 

理由2 アニメーション 動きで表現する生命の羽ばたき

 

理由3 テーマ性 物語が深めるメッセージ

 

次回も是非、ご期待ください!

 

 

イマヌエル・カントの三批判書〜実践理性批判〜

 

「人間は自由の刑に処されている」

 

サルトル(フランスの哲学者、小説家、劇作家 / 1905~1980)

 

 

こんにちは、泉楓です。

 

今回も日々の雑感をまとめていきます。「自由」について考えていると様々な場面でその見えざる影響力を感じとることがあります。

 

例えばこんな場合は如何でしょうか……

 

とある休日の昼頃、あなたは綺麗な並木路を歩いてるとします。その路はあなたのお気に入りの路で、そこを歩く時、あなたはいつも上機嫌です。規則正しく敷き詰められたレンガで完成されている歩道の柄を楽しんでいると、目の前を歩く背広を着た中年の男性の手から、一枚のビニール袋が落とされました。

 

「ゴミのポイ捨てかな?」と思いましたが、ビニール袋にはどうやら中身が入っているようなので、あなたは勇気を出して男性に声をかけます。

 

「あの!落としましたよ……!」

 

無言で振り返った男性に、あなたはビニール袋を拾って手渡します。すると男性は小さく舌打ちをした後、さらに小さく会釈をして去って行きました。

 

……さて、このような経験をしたならば、大抵の人は気分を害してしまうことでしょう。見事な景色の邪魔をしてしまうような行為は到底許されるものではありません。義憤に燃える腹の中。しかし、そこに生じた感情は怒りだけでしょうか?

 

端的に言えば、男性の行動とあなたの行動を客観的に批判したとき、必ずしも男性が愚かであり、あなたが正しいとは断定できないということです。男性がなぜそのような行動に出たのか、あなたには推測することしかできません。

 

男性はたまたま要らないものを落としてしまっただけで、もしかしたら落としたこと自体に気付いていないかもしれない。あるいは仕事や家庭に急用があり、内心落ち着かない状態で先を急いでいたのかもしれない。

 

対してあなたは、自分が気に入っている路が汚されたことに戸惑いを感じ、乱された感情を落ち着けるための行動に出た。あなたは余暇を楽しんでいた。あなたにとって、ビニール袋を拾ってゴミ箱に捨てることなど造作もないことです。なのにどうして、男性に対する憤りを禁じ得ないのでしょうか。

 

自由の問題は、個人を抜け出して社会の中で語られる場合に、複雑怪奇な様相を示すことで、度々私たちを困惑させているようです。私の自由は甘美であるが、他者の自由は認めがたい。自由の議論はいつも、螺旋状に上昇を続けるだけで、目指すべき到達点を見失ってしまうように思えます。

 

 

イマヌエル・カントはその著書『実践理性批判』において、次のようなことを書いています。

 

汝の意志の採用する規律がつねに同時に普遍的立法の原理としても妥当するように行動せよ。

 

この一文は、カントが提唱した倫理学における根本原理の特徴が表れた一文です。一般には「定言命法」という名でよく知られていますね。「綺麗な路であれば、ポイ捨てするな。」というような条件付きの命令ではなく、無条件に「ポイ捨てするな」という絶対的命令として妥当な行為を選択しなさい、というような意味です。

 

今回は、この一文を中心に据えて自由の概念を考えてみたいと思います。「前置きが長い!」という読者の突っ込みを華麗に聞き流しながら本編の始まりです。

 

イマヌエル・カントの三批判書 『実践理性批判

 

私たちが通常考えている自由とはどのようなものでしょうか?

 

「好きなときに好きなことができる」

 

これが自由の条件だ!と言えば多くの人が頷くことだと思います。しかし、カントはここで首を横に振るのです。

 

「お腹が空いたから食べる」「眠いから寝る」「寒いから服を着る」というような人間の行動は、カントに倣ってみると自由ではありません。なぜならば自ら考えて理性的に行動しているとは言えないからです。カントは人間が外部の因果律に支配されて生きている状態を自由だとは認めませんでした。

 

カントは人間が判断・行動するときに働く理性を「実践理性」と呼び、これを行動原理とする行為の中でこそ、人間は道徳的かつ自由であると提唱しました。

 

ここで前回の『純粋理性批判』における人間の認識の仕組みを思い出してみましょう。

 

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カントは人間が主観的に心の中で描いている像のことを「現象」と呼び、人間の外側の客観世界にある事物を「物自体」と呼んで区別しました。

 

「物自体」は認識不可能な物質の広がりであり、人間はそこから受け取る様々な信号を認識能力を以って処理するのだと考えたのです。

*前回の記事より引用

 

カントは「自由」とは「物自体」と同様に認識不能な世界にあると考え、その世界のことを「叡智界」と呼びました。そして人間が「行為の主体」として行動するならば、人間は叡智界に存在できると考えたのです。

 

外部の因果律に従って行動した場合、その人間には責任が生じません。自らの意志というよりは、外部の原因に支配されて行動しているからです。反対に行為の主体として行動したならば、その人間には責任が生じます。「私は〜せよ。」というふうに、自らに絶対的な命令を与えている限り、人間の主体性は保証されているからです。他ならぬ「私」が判断した物事の結果なので、責任は「私」にある。

 

こうして叡智界に存在している人間は自由な状態にあると言えます。そうでない人間、行為の主体になれない人間は不自由な状態にあるとカントは考えるのです。

 

私はカントと同様に、人間一人一人の自由意志が存在することを信じています。そして人間が「私」を主体として判断し、行動することができる存在であることを切に願っているのです。それは「私」ひいては「他者」が皆、対等の存在であること、そしてその尊厳を担保する原理であるからです。

 

 

 

……今回はここまで。

 

このように読み解いて判るとおり、カントの三批判書は現代においても普遍的な問いかけを持つ哲学書なのです。どのような時代にあっても、この哲学書を読んだ人々が自由と平和への希望を見出せますように……。

 

カントの三批判書については、今後『判断力批判』の記事を書く予定です。今回注目していた「自由」とはあまり関係性が見出せずにいるので、また他の良い機会を待とうと思っております。

 

ではまた。

 

 

真実は、すべての人が自由になるまで誰も自由にはなれないということ。

マヤ・アンジェロウ(米国の詩人、作家、公民権運動家 / 1928~2014)

 

 

 

Joseph Maurice Ravel 〈 Jeux d'eau 〉 モーリス・ラヴェル「水の戯れ」

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 こんにちは、ねむろえみです。今日から私の好きな作品や関心あるもの、おすすめしたいものを書く予定です。当面は水に関するクラシックの音楽、主にピアノ曲について書くつもりです。理論的なことより、感覚的なことを主観的に語るのが中心になるので、気楽に読んでいただけると幸いです。

 

私とラヴェル「水の戯れ」との出会い

 この曲を私が初めて耳にしたのは、多分中学生の音楽の授業でした。「今日はクラシックをみんなで聴いてみましょう」というような話の中で出てきた音楽だと思います。教科書にも載っていました。音楽室の後ろに並ぶ作曲家の中にはいなかった気がします。(ちなみにドビュッシーはありました。)中学生の私は、ピアノ曲が基本的に好きだったので、始めから興味を持って聴くことができました。最初の印象としては、「なんだか聞いたことのないような響きのする音楽だ」と思いました。流行のJ-POPも洋楽も、クラシックなら古典ロマン派の楽曲なども多分少しずつは聴いていたのですが、ラヴェルのような音の響きのする音楽は初めてでした。水がきらきらしている感じがして、すごく綺麗な音楽だとその時感じました。

 

音楽の聴き方がよく分からない

 音楽の聴き方は多様ですよね。あなたはどんな聴き方をしていますか。曲によってその聴き方を変えることはありますか。私はクラシック音楽の聴き方は難しいなと思うことがあります。基本的には感覚的でいいと思っていますが、背景を知ると、より面白く聴けたり、良さを再度発見できたりするために感覚だけで楽しむのはもったいないと感じることがあるのです。楽譜を読んだり、アナリーゼしたりしてみると、作曲者の創意工夫や、すごいなと思う部分が見つかることがあります。その中で、例えばタイトルがはっきりと今回のように「水」をモチーフにしたと考えられる音楽は水っぽさとは何か考えながら鑑賞しますよね。では「作品○○-○」みたいな音楽はどう鑑賞したら良いのでしょう。そもそも、先ほどの水のイメージを抱きながら鑑賞する方法をとると、見えてくる世界が制限されるのではないでしょうか。

 鑑賞者には鑑賞の自由が与えられていると私は思います。どんな風に鑑賞してもいいし、合わないなと感じたら鑑賞しなくてもいい。だから何が正解かという問いはあまり重要じゃないのかもしれないです。でも、作り手の望みや批評家の話はその限りではないかもしれませんね。「失恋ソングを聴いて、感傷的な気分に浸る」というような情緒に偏った聴き方をするのはどうなのか。音楽を文学のように聴くことは音楽そのものの可能性や発展性を挫くことになるのではないか。そんなことを考えた経験が私にはあります。背景を知ったり、理論を学んだ上で分析的に聴いたりするといったことが、もし音楽を楽しむことの妨げになるのならやるべきではないと私は考えるのでしょうけど、音楽の良さが多面的に見えてくるからやめられないのです。ただ、知識を獲得することで、音楽の世界が閉鎖的になってしまうのなら、やっぱりそれはよくない。その辺りのことを考えながら、多くの人が音楽を、そして芸術作品をよりよく鑑賞していただければと切に願っています。私は「この作品はどんな鑑賞の仕方をすると面白いのだろう」、「これは書くべきことなんだろうか」と迷いながら、好きな芸術作品について書くのだということを最初に伝えておきます。

 

不思議な響きについて

 印象主義と称される音楽には、なんともいえない音の響きが多く登場します。もちろんこれは、作曲家が意図してやっていることですが、どうしてそういった音の響きが登場したのでしょうか。ちょっと時代背景を覗いてみましょう。

 フランスの音楽はバロック期から19世紀半ばまで自国の名作曲家がほとんどいませんでした。そんな中、1871年に「フランスにもドイツに負けない正統的な器楽文化を作ろう」という名目で国民音楽協会が設立されます。国民音楽協会は、ドイツ音楽の主流となっているソナタ形式やフーガ、交響曲弦楽四重奏曲を導入しようとし、ドビュッシーを代表とする印象主義と称される作曲家たちはそれをベースにしてフランス音楽独自のアイデンティティの構築を目指しました。

  ラヴェルの「水の戯れ」の場合、形式はドイツ音楽の主流でもあるソナタ形式ですが、第一主題の和声を見てみると、従来のロマン派的な3度堆積ではなく、4度音程や5度音程を用いていることが分かります。他の部分でも古典っぽさも継承しているところがあり、それでいて新しい表現を目指していることが全体を通してうかがえます。

 先ほど示したように時代背景ももちろん関係はあるのでしょう。しかし、そもそも芸術は新しい発見や、馴染みのあるものごとから何か再発見をして、新たな表現に繋いでいくことが一つの目的だと考えます。つまり、従来の表現に満足せず、新たなことへ挑戦することが大事なので、それまでの表現を尊重しつつ、新たな美の構築を目指すのは自然な流れだと私は思います。

 理論的な詳しい話はさておき、冒頭の1小節目2小節目の音の響きを聴くと、ラヴェルらしさを感覚的に捉えることができると思います。「良いな」「綺麗だな」と私が思える箇所はいくつかありますが、やはり始めの1、2小節でぐっと心を掴まれた記憶があり、繰り返し聴いても印象的なモチーフだなと思えます。曲を知った当初、つまり和声をよく知らない時に「どうしてこの曲はこんなに美しくて耳に残る音楽なのに、頭の中で再現したり、鼻歌で歌ったりすることができないんだろう」と不思議でした。輪郭があるようでないようなところが掴めるようで掴むことのできない水の流れのように感じられて良いなと思いました。

 

〈 Jeux d'eau 〉 の直訳は噴水?

 この曲を聴いて勝手に想像していたのは小川の流れのようなものだったのですが、どうも原題から察するに噴水の水の動きの描写なのではないか、と後から気づきました。(次から次へと表情を変える水の流れの描写という意味では遠くはないのですが。)

 「水の戯れ」について調べてみると、通常は「噴水」と訳すらしいということが分かりました。フランツ・リストの曲に「エステ荘の噴水」〈Les Jeux d'Eaux à la Villa d'Este〉があります。もしかしたらこの曲に対するリスペクトの意味でつけられたタイトルなのかもしれません。

 

好きな演奏者

 クラシックで面白いのは、演奏者によって音楽の印象が違って聞こえるところだと思います。ラヴェルピアノ曲ドビュッシーの次に好きだったので、手当たり次第著名なピアニストの演奏を聴いてみました。良し悪しではなく、これは完全に私の好みなのですが、ラヴェルはルイ・ロルティの演奏が好きだなと思います。曲によってまた変わってくるのですが、色彩豊かな表現でありながら、あまりテンポを変えるべきでないと思う箇所のテンポを崩すことなく弾いているのを聴いて、良いなと感じました。ラヴェルは弾きながら書いた感じがしないので、時にメカニカルな印象を受けるのですが、それをほとんどそのままメカニカルに体現している奏者と、そうでない奏者がいて、ロルティは部分部分で後者かなと感じます(詳しく伝えるのが難しいので割愛しますが、結果的に後者っぽい感じがしました)。良くも悪くも細かな部分でいろいろな動きや色を感じ取ることができます。ラヴェルピアノ曲集のCDを出していることもあって、録音環境も良く、まとめて聴ける手軽さからしてもロルティは良いと思いました。

 

音楽と絵画と水

 音楽は時間芸術といわれます。そして水の流れも時間と共に変化するため、音楽と水の流れは相性が良いのではないでしょうか。絵画も印象派期になると、画材の発展により、光に溢れた色鮮やかで華やかな表現が可能になりました。光を反射する水は、やはりよいモチーフになったのだと思います。音楽だけでなく絵画にまで水の表現が印象派の時代に多く残されたことは、偶然なのか定かではありませんが、そんな水の描写の多い印象派の芸術には私は甚く惹かれるのです。

 

余談

 メモ代わりに自分のために残しておきたいことがあります。誰かがラヴェルは縦の動き、ドビュッシーは横の動きが云々という話をどこかで耳にしたことがあり、それが何なのか気になりながら意味があまりよく分かっていません。縦の動きというのは和声のことで、横はリズムやスケールといった話なんでしょうか。ラヴェルドビュッシーは比較されることもしばしばあるのですが、私には近い時代を生きた二人であるとはいえ、何をどう比較したら良いのか見当もつかないままです。ただ、勝手なイメージとしてラヴェルの音楽を聴いていると孤高な感じがしてくるのに対し、ドビュッシーの音楽はいつも人の気配がなんとなく感じられるなと昔から思っていました。彼らのことを調べたときにやや納得したのですが、それでもどうして音楽がそのように聞こえたのかは分からないままです。

 

 今回はラヴェルの「水の戯れ」について書いてみました。改めてこの曲を聴いて何か感じていただけたら幸いです。抱くのは何ともいえない感じで構わないのです。言葉にできなくてもいい、むしろその言い淀みの中に重要なことが潜んでいるかもしれません。私にとって重要なのは、各々の気づきや再発見があるかどうかということなのです。

 次回はフランツ・リストの「エステ荘の噴水」について書く予定です。ではまた。

 

参考

楽譜

Jeux d'eau (Ravel, Maurice) - IMSLP: Free Sheet Music PDF Download

音楽 (Performed by Jean-Yves Thibaudet)


Ravel - Jeux d'eau, Sheet Music + Audio

 

イマヌエル・カントの三批判書

 

あらかじめ死を考えておくことは、自由を考えることである。

モンテーニュ(フランスの哲学者、モラリスト / 1533~1592)

 

こんにちは、泉楓(いずみかえで)です。こちらのブログでは、好きな文芸、アート、音楽の紹介や、それらを観賞して日々感じたこと、考えたことをまとめていこうと思います。

 

流れゆく雑感を書き留めておきたいという希望から始めたものなので、考察や実証の行き届かない部分もあるとは思いますが、どうかご勘弁ください。

 

それでは本編です。

 

 
 
 
イマヌエル・カントの三批判書

 

18世紀ドイツの哲学者イマヌエル・カントは、人間の認識能力を批判的に論じることによって、人間の持つポジティブな可能性を明らかにしようとした人物です。彼の言葉や文章に触れることで私が受け取ったひとつの問題はこちらです。

 

『自由の意味とは……?』

 

自由という名の旗の下に、現代社会は今の形を獲得してきました。自由という概念の及ぼす大きなうねりは、それを煽る者もそれに抗う者も巻き込んで、現代に住む私たちにまで波及していると言えるのでしょう。

 

では、自由とは本当に良いものなのか?

 

……と、私は疑問に思ったのです。その疑問の解答を模索するためにも、自由とは一体何なのか、その意味と価値を吟味したいと私は思っています。その第一歩に示唆を与えてくれた文章、それこそがイマヌエル・カントの三批判書だったのです。

 

  • 人間の認識の仕組み

 

まず、カントは著書『純粋理性批判』において、人間の理性についてその性質を吟味しています。

 

次に示すのは、人間の認識能力を表した私のイメージ図です。

 

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カントは人間が主観的に心の中で描いている像のことを「現象」と呼び、人間の外側の客観世界にある事物を「物自体」と呼んで区別しました。

 

「物自体」は認識不可能な物質の広がりであり、人間はそこから受け取る様々な信号を認識能力を以って処理するのだと考えたのです。

 

さらに認識能力は二段階に分けられ、それぞれを「感性」と「悟性」と名付けました。「感性」は受け取った情報から、時間と空間という枠組みの中で「直観」を形作ります。「悟性」は受け取った情報を「カテゴリー」に分け、判断を行う役目です。

 

感性を受動的認識能力だとするならば、悟性は自発的認識能力だと言えるでしょう。

 

「カテゴリー」というのは人間が物事を考える際に使っている思考のパターンだと捉えて良いと思います。カントはカテゴリーを12のパターンに分類しました。

 

  • 量のカテゴリー
  1. 単一性
  2. 数多性
  3. 総体性
  • 質のカテゴリー
  1. 実在性
  2. 否定性
  3. 制限性
  • 関係のカテゴリー
  1. 実体と属性
  2. 原因と結果
  3. 相互作用
  • 様相のカテゴリー
  1. 可能、不可能
  2. 現存性、非存在
  3. 必然性、偶然性

 

*それぞれの具体的な例については割愛致します。

 

カントは人間の認識能力を上記のように分析することで、感性の次元で直観的な時間・空間把握を行い、悟性の次元でカテゴリーにより判断が行われると説明しました。

 

重要なのは、これらの能力が人間に先天的に備わっており、経験を必要とせずとも、カントの分析した認識能力によって物事を捉えることができるということです。

 

もしもカントのこのような知見がなければ、人間は経験によって得られた情報に基づいた判断しか下せないということになります。人間が観ている主観世界の外側に一切の人間の思考が入り込めないということは、人間の自由意志の存在を認めないということになりかねません。

 

もうひとつ重要な点があります。カントがこのように認識能力を、『私』を中心に据えて考えたということです。『私』が見て、触れて、嗅いで、聴いて、感じたことを『私』という独立した個体が統合し、判断することでカントが分析した認識は成り立っています。これこそ自由の根本原理なのです。(だと私は信じています。)

 

今回の記事はここまで。カントの三批判書に関する記事はいずれ続編を書くと思います。

 

稚拙な点も散見されるとは思いますが、皆さまのお暇に、知的な風味のするお茶菓子を添えられたのであれば幸いです。ではまた。

 

 

人間を自由にできるのは、人間の理性だけである。人間の生活は、理性を失えば失うほどますます不自由になる。

トルストイ(ロシアの小説家、思想家 / 1828~1910)