小林秀雄の『人形』
私の実感から言えば、ゴッホの絵は、絵というよりも精神と感じられます。私が彼の絵をみるのではなく、向こうに眼があって、私が見られている様な感じを、私は持っております。ー小林秀雄『ゴッホの病気』より
人は自らの主観世界に生き、ついにはそこから出ることも叶わずに幕引きを迎えます。客席に並んでいるのは客観世界。私たちは彼らに対してどのような態度を取るかで、その人生という舞台をどう演じるかという問題に多様な応えかたをしているのです。ある者はそれを他人事として割り切り、自らの演技の内側に深く潜っていく。またある者はそれを常に意識して、外側へ向かい涯のない問いかけを繰り返している。他者の視線、視座に関しては多くの哲学者がその問題に挑んできた歴史があります。時にそれは私を殺害しようと企む脅威として、時にそれは私が一体となりたいと願う欲求の対象として、時にそれは自然と同質のものとして浮かび上がるのです。
どうして他者が問題となるのでしょうか。それは私たちが他者と他者の関係性の総体であるところの社会に属して生きているからです。人間は自然界を切り取り、そこに社会を形成していますが、それは実体を持たない存在です。私たちは不安という形で、もしくは期待という形でそれを想像しているのではないでしょうか。
こんにちは、泉楓です。前置きが長くなりましたが、ここから本題に入っていきます。
小林秀雄の『人形』は昭和37年10月、彼が60歳の時に朝日新聞の紙面に掲載された文章です。ここでは私が概略をお話させてもらいますが、親しみやすい文体で書かれている短い随筆なので、みなさんにも是非読んでいただきたい名文です。斜体部は本文をそのまま引用しています。
或る時、大阪行の急行の食堂車で、遅い晩飯を食べていた。四人掛けのテーブルに、私は一人で坐っていたが、やがて、前の空席に、六十恰好の、上品な老人夫婦が腰をおろした。
ある時。小林秀雄が食堂車で4人がけのテーブルに座って晩ご飯を食べていると、彼の前に60代くらいの老夫婦がやってきて座った。老夫婦からは上品な印象を受けたが、一段と目を引くのは夫人が傍に抱えた大きな人形だった。人形の見た目は形容しがたいもので、食事の席に現れた周囲と不釣り合いな存在は、普通ならば驚いて声を上げてしまうような見た目だったのだろうと思われます。
……人形は、背広を着、ネクタイをしめ、外套を羽織って、外套と同じ縞柄の鳥打帽子を被っていた。着附の方は未だ新しかったが、顔の方は、もうすっかり垢染みてテラテラしていた。眼元もどんよりと濁り、唇の色も褪せていた。何かの拍子に、人形は帽子を落し、これも薄汚くなった丸坊主を出した。
夫人が目くばせすると、旦那が帽子を拾いあげます。帽子を拾う際に旦那と小林秀雄の目が合います。おそらく彼は、この奇妙な光景をどのように了解しようかと見ていたのだろうと思います。すると旦那は"子供連れで失礼とでも言いたげなこなし"で会釈をし、帽子を窓の釘に掛けたといいます。これを受けて彼は次のように語ります。
……もはや、明らかな事である。人形は息子に違いない。それも、人形の顔から判断すれば、よほど以前の事である。一人息子は戦争で死んだのであろうか。夫は妻の乱心を鎮めるために、彼女に人形を当てがったが、以来、二度と正気には還らぬのを、こうして連れて歩いている。多分そんな事か、と私は想った。
この文章が書かれたのが昭和37年、終戦が昭和20年のことなので、この話は戦争の傷痕が消え切っていない日本での出来事だと思われます。小林秀雄は人形の見た目から事情を察して"人形は息子に違いない"と判断したのです。
夫人は運ばれてきたスープをすくい、いちど人形の口元に持っていってから自らの口へ入れています。小林秀雄はバター皿を手前に引き寄せていたことに気づいて、バターをひとかけら取って彼女のパン皿に載せました。彼女はまるで本物の息子の世話をするように人形へ気を遣っているので、彼の気遣いには気付きません。「これは恐縮」と代わりに旦那の方が礼を言います。
そんな折、この不思議な会食の場に、もうひとりの客が現れるのです。
……そこへ、大学生かと思われる娘さんが、私の隣に来て坐った。表情や挙動から、若い女性の持つ鋭敏を、私は直ぐ感じたように思った。彼女は、一と目で事を悟り、この不思議な会食に、素直に順応したようであった。私は、彼女が、私の心持まで見てしまったとさえ思った。これは、私には、彼女と同じ年頃の一人娘があるためであろうか。
息子に構いながら食事を進める夫人の様子を見て、小林秀雄は考えます。もしかしたら彼女は正気なのかもしれない。彼女は身について離れない習慣を繰り返しているだけではないのか。この記事を書いている私や、読んでいるあなたが、他人には解らない癖を身につけて毎日を繰り返しているのと同様に。
しかし、これまでの習慣が身につくまでには時間がかかるものです。彼女は今日まで"周囲の浅はかな好奇心"と戦い続けてきたということになります。
それほど彼女の悲しみは深いのか。
異様な会食は、極く当り前に、静かに、敢えて言えば、和やかに終ったのだが、もし、誰かが、人形について余計な発言でもしたら、どうなったであろうか。私はそんな事を思った。
……以上が小林秀雄の『人形』でした。
私が初めてこの話を読んだのは、20歳前後の頃だったと思います。ブックオフで適当に見繕った古本の中に、小林秀雄の『考えるヒント』がありました。
この短い随筆文を読んで、当時はよくわからなかったと言いますか……「なんだこれで終わりか」「この話をして作者は何を伝えたいのだろう」と感じたのを覚えています。しかし、どこか未知の魅力に惹かれる感覚はありました。ここに表されている何かを知りたい、経験してみたいという欲求、そして懐かしさと言うと違うかもしれませんが、どこかで似たような経験をしたことがあるかもしれないという感じを受けました。
今読み返してみると、これは他者との関係の難しさや奇妙さ、言いようのないような不思議な事を表現しているのだと飲み込むことができています。いやはや、何も変わってないと思っていても人は変わるものですね。
私たちは常に見られています。こういうと少し怖いかもしれませんが、大抵は暴力的ではない目線の網のなかに暮らしています。このことは私たちを不安にさせますが、こういう「他者の視線」があることで「倫理」という概念が社会秩序を保つために働くことができるのです。
この記事の冒頭でも述べたように、私たちが他者に対してどのような態度を取るかで、人生は様々な表情をみせてくれます。
今回紹介した『人形』は著者である小林秀雄の主観で描かれています。すべては彼の視線、思考、判断に依存しており、私たちは文を読むことでその中に投げ入れられるわけですが、私たちは彼の言葉に対して他者の視線を向けているのと同時に、彼の言葉からも他者の視線を受けています。
彼が老夫婦や人形や女子学生に対して行った批評と判断は、彼が勝手に作り上げたもので、実際のところはよくわからないのです。しかし、女子学生と彼はどこかで通じ合っているように見えます。
女子学生は何かを感じ取って、自分の取るべき行動を選択した。小林秀雄はその態度に対して感銘を受けた。そして彼の心持ちまで見られたように思ったわけです。
そして"異様な会食は、極く当り前に、静かに、敢えて言えば、和やかに終った"のでした。
もし誰かが、他人の心に無関心で、人形に対して何か口を開いたとしたら。自分の脳裏に浮かんだ批評や判断をそのまま言葉にするようなことをしたら。いったいどうなっただろうか……。
小林秀雄はそのことを読者に考えてほしいと思ってこの作品を書いたのではないでしょうか。
最後に、あなたはこの話を聞いてどう思ったでしょうか。物言わぬ人形があなたを見つめているのです。
自分自身と和する事の出来ぬ心が、どうして他人と和する事が出来ようか。そういう心は、同じて乱をなすより他に行く道がない。ー小林秀雄『私の人生観』より
私の幸福論 第三部
浪費するのを楽しんだ時間は、浪費された時間ではない。
バートランド・ラッセル イギリスの哲学者、論理学者、数学者(1872〜1970)
こんにちは、泉楓です。幸福論も三回目ですね。今回はいよいよラッセルの幸福論。ラッセルと言えばノーベル文学賞の受賞者としても有名です。若い頃は数学の研究に没頭。数学から論理学、論理学から哲学に興味を移し、晩年は政治の世界にも多大な影響力を持つ知識人として、数多くの名著を残しました。今回取り上げる『幸福論』はもちろん、『結婚と性道徳』や『哲学入門』など、わかりやすくて深遠な著作がたくさんあります。また彼は核廃絶運動家としても有名です。彼が物理学者アインシュタインと協力して発表したラッセル=アインシュタイン宣言は、人類の科学に対する向き合い方を議論するパグウォッシュ会議の開催に繋がりました。
多才で活動的なラッセルが著した『幸福論』がいったいどのような内容なのか。現代の私たちの考え方の参考になるのか。さっそく考えていきましょう。
ラッセルは幼い頃に父を亡くし、厳格なプロテスタントである祖母から厳しく育てられたといいます。その頃を振り返ってラッセルは次のように語るのです。
徳のみが、知性や健康や幸福や、あらゆる現世的善を犠牲にした徳のみが、賞賛された。
『自伝的回想』より
祖母から押し付けられた価値観や道徳に対して強い反感を抱いていた彼は、だんだんと数学の世界に没頭するようになり、"合理的に考えること"を自らの理念として確立していきました。
自らの理性を信じ、自らの行動規範を自ら考え、道を見出す。これはラッセルの思想の核となっているのだなと私は感じました。
彼は幸福についても合理的に考察していきます。まず不幸の原因となる事柄を洗い出し、列挙する。そしてそれらを克服すれば幸福になれると考えたのです。
ラッセルが挙げた不幸の原因が次の八項目です。
続いてそれぞれの対処法を見ていきましょう。(項目はそれぞれの数字に対応しています。)
- 楽観的な行動によって思考をコントロールする
- 他者との比較を止め、取り組んでいる活動を純粋に楽しむ
- 過剰な興奮を求めず、退屈を肯定する
- 疲れは精神的な心配が原因なので、客観的に物事を捉え直すことで、あらゆる心配が杞憂であることに気付く
- 比較は無意味であると知り、自分の好きな物事に没頭する
- 他者から与えられた道徳観念に価値はないと知り、自らの理性を信頼する
- 物事が上手くいかないことの原因を他者に求めても一切解決しないと知る
- 不必要に世評に耳を傾けない。また個々人が真の幸福を探究し、満足することで、他者に苦痛を与えることを主な楽しみとしない寛容な個人を増やす
合理的に考えるラッセルらしい列挙と回答ですね。不幸の原因をひとつひとつ検討しています。私はここからラッセルの幸福についての考え方を抽出していこうと思います。
ラッセルは不幸の原因第七項の「被害妄想」を解決する思考方法として、次のようなことを指摘しています。
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「あなたの動機は、必ずしもあなた自身で思っているほど利他的ではないことを忘れてはいけない」
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「あなた自身の美点を過大評価してはいけない」
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「あなたが自分自身に寄せているほどの大きな興味を他者も寄せてくれるものと期待しない」
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「大抵の人は、あなたを迫害してやろうと特に思うほどあなたのことを考えているなどと想像してはいけない」
ラッセルは他者を冷静に観察をしているということがわかるでしょう。理屈で考えれば、他者の心とは不可知なる存在です。不可知なる存在である他者の心について、あれこれと想像したり推論することはあまり意味がないと考えていたようですね。「周りがどう思うか」よりも、「わたしがどう考えるか」の方に価値を置いていたことがよくわかります。
ラッセルは「心の分析」という著書のなかで「世界五分前仮説」という思考実験を提出したことでもよく知られています。ラッセルは知らなくても、この思考実験なら知っているという方もいらっしゃるのではないでしょうか。
世界が五分前にそっくりそのままの形で、すべての非実在の過去を住民が「覚えていた」状態で突然出現した、という仮説に論理的不可能性はまったくない。異なる時間に生じた出来事間には、いかなる論理的必然的な結びつきもない。
それゆえ、いま起こりつつあることや未来に起こるであろうことが、世界は五分前に始まったという仮説を反駁することはまったくできない。
したがって、過去の知識と呼ばれている出来事は過去とは論理的に独立である。そうした知識は、たとえ過去が存在しなかったとしても、理論的にはいまこうであるのと同じであるような現在の内容へと完全に分析可能なのである。
バートランド・ラッセル著「心の分析」より
この思考実験によりラッセルが述べたいことは、経験した事柄に対してわたしたちが独断的に考えたり、推論したりしていることは実は誤りかもしれない、ということかと思います。
「太陽は東から昇って西へ沈む」という事柄の信憑性を裏付けるものとは、わたしたちの経験以外の何物でもありません。では同じように「太陽は地球の周りを回っている」という事柄を考えてみると、どうでしょうか?
地球に住んでいるわたしたちの経験から推測すると、太陽はわたしたちの頭上を回っていると考えるのが妥当だと思いませんか?
しかし、わたしたちは「太陽という恒星の周りを地球を含む惑星が回っている」という知識を持っているので、「太陽は地球の周りを回っている」という事実は誤りだとわかります。
このように考えると、現代に生きるわたしたちが、無意識のうちに科学を信頼し、時にはわたしたち自身の経験より客観的事実を優先しているということに気づくことができますね。
ラッセルは経験則として得られる様々な知恵よりも、自らの理性によって考えられた合理的な結論を重要視しています。
例えばあなたが自分より年上の人から「私のほうが経験が豊富なのだから、私の意見に従いなさい」と言われたとしても、あなたの理性が「従うべきではない」とあなたに語りかけるのであれば、あなた自身の考えを優先させても良いということです。
ラッセルの幸福観
幸福の秘訣はこういうことだ。あなたの興味をできるかぎり幅広くせよ。そしてあなたの興味を惹く人や、物に対する反応を敵意あるものでなく、できるかぎり友好的なものにせよ。
ラッセルは自己の内部と外部では、外部に重きを置いています。自己の内部に傾倒しすぎると「自己没頭」「ナルシシズム」「誇大妄想」によって自分自身を苦しめることになると言うのです。
論理的に考え得る対象はいつも外側、客観的世界にあるものです。わたしたちの世界、独我論的世界から抜け出すための道具は、言葉と記号による論理的思惟なのかもしれません。
対してわたしたちが「心」と呼んでいる対象、「私」、「あなた」と呼応する際にわたしたちが指向している何かについては、合理的に考えようとすればするほど泥沼にはまっていくような気がします。
ラッセルは「幸福な人」は「私心のない興味」を持っていると分析しています。また他者に対しては正しく愛情を持ち、「努力と諦め」を心得ていると語っているのです。
最上のタイプの愛情は、相互に生命を与えあうものだ。おのおのが喜びをもって愛情を受け取り、努力なしに愛情を与える。
賢人は、妨げうる不幸を座視することはしない一方、避けられない不幸に時間と感情を浪費することもしないだろう。また、それだけなら避けられるような不幸に見舞われたとしても、もしもそれを避けるのに必要な時間と労力がもっと重要な目的の追求を妨げるようであれば、進んでその不幸を甘受するだろう。
自分自身の理性を信頼する。それは他者についても同じことです。皆それぞれが自分自身の理性を信頼し、自ら考え自ら行動している。実際の所はどうかわかりませんが、そのように信じることで他者を愛することも、自身を愛することも可能になります。相手の人格を尊重し、相手を単に手段としてみなさないということ。これはアランの幸福論にも共通した考え方ではないでしょうか。
さて、ここまでアランとラッセルの幸福論を読み解いてきましたが、ここに批判を加えるとしたらどのような批判が可能でしょうか。
両者とも、実践的な幸福論を展開しています。それは幸福が現世的なものであり、語り得る範囲でしか存在していない、という前提で論を展開しているからです。
不幸の原因を遠ざけ、幸福の要因に自ら歩み寄っていく。確かに多くの人はこの実践的なプロトコルに従っていれば幸福になれるのかもしれません。
しかし、この世界にはそのプロトコルを機能不全に陥れてしまうような不条理な出来事が溢れていませんでしょうか。
生まれつき戦争の渦中にいる者、生まれつき飢餓状態にある者、生まれつきあらゆるチャンスが奪われている者。
生きづらい、悲しみや苦痛に覆われて前も見えないという人々が、この世界には存在していると思います。ラッセルやアランも言っているように、世界全体が幸福でなければ、私が真に幸福になることはできません。それは逆も然りです。
今回はここまでにします。次回からはヒルティの幸福論を読み解きながら、より普遍的な幸福に迫っていけたらと思っています。ではまた。
個人的な目的が人類のためのより大きな希望の一部であった場合は、たとい挫折したとしても同じような、完膚なきまでの敗北ではない。
幸福な人とは、客観的な生き方をし、自由な愛情と広い興味を持っている人である。また、こういう興味と愛情を通して、そして今度は、それゆえに自分がほかの多くの人々の興味と愛情の対象にされるという事実を通して、幸福をつかみとる人である。
バートランド・ラッセル『幸福論』より
バートランド・ラッセル「神について」YouTubeより。
おまけ。参考までに。
私の幸福論 第二部
幸せだから笑うのではない、むしろ笑うから幸せなのだ。
アラン『幸福論』より
こんにちは、泉楓です。私の幸福論 第二部ということで、今回から「世界三大幸福論」と評されるアラン、ラッセル、ヒルティの幸福論を比較検討しながら、幸福について考えを深めていこうと思います。今回は特にアランの幸福論を取り上げます。
冒頭の文章はアランの幸福論から引用したものです。私を含め、疑い深い人にとっては、こうも単純に言われると疑いたくなるような「幸福論」なのですが、私はここにも重要な示唆が含まれていると思います。
この文章で重要なのは、受動から能動への転換が行われているという点です。「幸せだから笑う」の文では、主語となる「私」は「幸せ」という原因によって笑っています。対して後半の「笑うから幸せ」という文の中では「私」が笑い、その結果として「幸せ」を獲得しています。アランが主張したいことの一つはここによく表れていると思うのです。
1. アランの幸福論
さて、アランの幸福論においては「主体性」が幸福の一大要因とされているようです。と言ってもアラン自身は「主体性」が大事だとは語っていません。彼は体系化と抽象化を嫌い、努めて具体的に自身の哲学を語るようにしていたと言われています。そのことから、アランの弟子で同国出身の小説家、評論家であるアンドレ・モーロワは、アランを「現代のソクラテス」と評したそうです。
アランの幸福論を象徴するエピソードとして、古代マケドニアのアレクサンドロス大王と名馬ブケファロスの話があります。ブケファロスは強靭な身体と美しい毛並みを持つ素晴らしい馬でしたが、どんなに乗馬の腕が立つ者が乗っても、酷く暴れて手がつけられず、とんだ荒馬だと皆から見捨てられていました。
暴れるブケファロスを見て若きアレクサンドロスは、父に向かってこう言いました。
「もし僕が彼を乗りこなすことができたら、彼を僕の馬として買ってください。」
父から承諾を得たアレクサンドロスはブケファロスに近寄り、手綱を掴んだかと思うと素早く彼の背中に跨り、手綱を捌いて彼の顔を空に向けました。するとブケファロスは大人しくなり、アレクサンドロスの言うことに従ったと言います。
不思議に思った観衆にアレクサンドロスは言いました。「彼は自らの影に怯えて暴れていたのだ。彼が暴れたら彼の影も暴れる。彼は暴れる影と戦っていたのだ。」
幸福の秘訣のひとつ、それは自分の不機嫌に対して無関心でいることだと思う。
気分は判断力によるものではない。情念(パッション)によるものである。対して幸福は理性の賜物であり、意志、努力、行為によって実現可能な具体的事象である、ということです。
情念のほうが病気より耐えがたい。その理由はたぶんこうだ。情念は、わたしたち自身の性格や思想から全面的に起因しているように見えるが、それとともにどうにも打ち克つことのできない必然性のしるしを帯びているのである。
情念に対しては、わたしたちはなす術がない。というのは、わたしが愛するにせよ、憎むにせよ、必ずしも対象が目の前にある必要はないからだ。
情念は理性によって操ることのできるものではない。ならば情念に捉われて思い悩むことに時間を費やすよりは、あなたのやるべきことに目を向けて、その事物に集中した方が良いだろう。
不安や恐怖には必ず原因があるものだ。その原因は往々にして身近なものである。まずは身体的要因を探ってみよう。周りが暗くて不安だ。お腹が空いてイライラする。身体が不潔で落ち着かない、、、。
アランはあくまで具体的、わたしたちの生活に沿った知恵としての幸福論を示してくれます。
仕事において幸福感を得るためには、自ら率先して課題を解決し、主体性を持って仕事に向き合うべきだと言います。言われたことをこなすだけの労働は苦痛になり得ます。それに対していくら報酬が支払われようとも人は幸福になることができないということでしょう。
生活において幸福感を得るためには、幸せな時間を過ごすことが重要だと言います。幸せな時間は自分を「人生の主役」として捉えることで実現可能だそうです。
あなたの趣味はなんでしょうか?音楽を聴く、絵を見る、本を読む。あるいは仕事や家事の合間にテレビを見ることかもしれない。お風呂に浸かりながらYouTubeやNetflixで動画を観たり、お菓子を食べながらニンテンドースイッチで流行りのゲームをプレイすることかもしれない。
アランはこれらの幸福な時間を、さらに深めるために自らを「主役」に置き換えなさい、と言っています。もう言わなくてもわかりますね。自分でお菓子を作って、歌ったり、絵を描いたり、本を書いたりすれば良いのです。ハードルが高いと感じるかもしれませんが、アランならば「考えるより行動しなさい」と言うのかもしれませんね。
最後に人間関係です。自分の人生にどれほど満足していようと、人間関係が最悪では幸福だとは言えないかもしれません。とは言えども、「友人をたくさん作りなさい」と言うわけではありません。自分の隣人との関係が良好でさえあれば良いのです。わたしたちの人生において重要な関係はそんなに多くないはずです。
アランは「幸福は義務である」と言います。これは人間関係を考えるにあたって重要な示唆であると思います。
幸福というものは、といっても自分のために獲得する幸福のことだが、もっとも美しく、もっとも寛大な捧げものである。
悲観的になることは、気分、感傷によるものであり、楽観的になることは、意志によるものだとアランは語ります。そのため彼は「幸福であること」とは「幸福になります」と誓いを立てるようなことだと言うのです。
幸福は推論できたり、予見できるようなものではありません。まして他人の幸福とは、あなたがどうにかしようとして作用することのできるものではないとアランは考えるのです。
例えば、あなたの隣に病気になって苦しんでいる友人がいるとします。友人は病気によって悲観的になり、あなたに対して不機嫌な態度を示すかもしれません。または私なんてダメだ、私に関わらないでとあなたを拒否しようとするかもしれません。
アランはそこで、同情したり憐れんだりすることは良くないと言っています。あなたはあくまで楽観的に、明るく振る舞った方が良いのだと。友人にとって本当に必要なのは、憐れみではなく楽観的な意志の力なのだと。
(病気の友人に対して)…無関心であれというのではない。そうではなくて、快活な友情を示すことだ。誰も、人に憐みを引き起こさせることを好まない。もし自分がいても、健康な人間のよろこびを消し去りはしないということがわかれば、彼はたちまち立ち直り、元気が出る。信頼こそ素晴らしい妙薬である。
アランは礼節の重要性についても言及しています。個人的な話ですが「親しき仲にも礼儀あり」という言葉が大好きです。その本質をアランも語っているように感じました。
「礼節を重んじよ」と言っても、堅苦しい伝統的なマナーを守りなさいといわけではありません。自分が人生における主人公であるように、他者についても、その人の人生の主人公であるということを知りなさい、ということだと私は解釈しています。
礼節の本質は「行動によって情念を操る」ということだと思います。先程も述べたとおり、情念は理性によってコントロールできるものではありません。ならば行動によってコントロールするしかない。妬みや僻みは他者を尊重する心があれば生じ難いはずです。そのことは頭で理解していても、自分より幸福そうな人を見ると心は揺らいでしまうものです。相手が嫌な人で、自慢をしてきたり、マウントを取ってくる場合は尚更でしょう。なのでまずは行動する。相手に礼節を尽くすことで胸に渦巻く情念をコントロールするのです。
今回はここまで。次回はラッセルの幸福論を取り上げます。お楽しみに!
人間関係のなかで相手に期待しうる唯一のことは、それはお互いの本性を認め、相手が自分自身であり続けるのを求めることだけである。
その人があるがままの姿であるのを望むこと、それが真の愛である。
アラン『幸福論』より
私の幸福論 第一部
幸福とは何か。どこにあるのか。どこからくるのか。快楽とは違うのか。幸福感ではなく、必然性と普遍性のある幸福はあるのか。
アリストテレスは『ニコマコス倫理学』において、幸福こそが誰もが求める最高目標であると語っています。それは幸福が他の何物のための手段にはならないということです。人生の目標は幸福になることであり、幸福になることによって何かを得たり、何かを実現するのではなく、幸福のために私たちは生きているのだ。
日本の哲学者である三木清は、幸福について次のように語りました。
今日の人間は幸福について殆ど考へないやうである。試みに近年現はれた倫理學書、とりわけ我が國で書かれた倫理の本を開いて見たまへ。只の一個所も幸福の問題を取扱つてゐない書物を發見することは諸君にとつて甚だ容易であらう。
……(中略)……
過去のすべての時代においてつねに幸福が倫理の中心問題であつたといふことである。ギリシアの古典的な倫理學がさうであつたし、ストアの嚴肅主義の如きも幸福のために節欲を説いたのであり、キリスト教においても、アウグスティヌスやパスカルなどは、人間はどこまでも幸福を求めるといふ事實を根本として彼等の宗教論や倫理學を出立したのである。幸福について考へないことは今日の人間の特徴である。現代における倫理の混亂は種々に論じられてゐるが、倫理の本から幸福論が喪失したといふことはこの混亂を代表する事實である。新たに幸福論が設定されるまでは倫理の混亂は救はれないであらう。
三木清 人生論ノート「幸福について」より
出典 青空文庫https://www.aozora.gr.jp/cards/000218/files/46845_29569.html
人生の目的とは何か?と問われた時に、現代の人々が答えに困る様子は容易に想像がつきます。仕事、家族、趣味、恋愛など、それらしい答えを一応持ち合わせる人はいるでしょう。しかし、それらが私たちを裏切ったとき、私たちは人生に絶望してしまうことになります。
「絶対の真理などない。」
私は相対主義者だと名乗る人がいれば、そのように言い放つかもしれません。ならば私たちの人生の目的とは何なのでしょう。人生に目的や意味がないのだとしたら、私たちはこの苦悩に満ちた人生をどのように乗り越えたらいいのでしょう。苦痛や困難からひたすら目を逸らし、快楽に取り囲まれ享楽的に生きる。それでも良いのかもしれない。
しかしみなさんは、それで納得できるでしょうか?
死の恐怖や、どうしようもなく目の端に映る悪魔の影に怯えていては、せっかくの快楽も歪んでしまう。もしくは快楽が実は悪魔であって、私たちは悪魔に騙されながらたった一度きりの人生を生きている。多くの疑い深い人々にとって手段に過ぎない数多の快楽は陳腐に見えてしまうものです。虚無や絶望を抱えながら生きていくには、私たちは弱すぎる。
今日は人生の目的は幸福だということを前提に、「私の幸福論」を構築していきたいと思っています。
申し遅れましたが、筆者は泉楓が務めさせていただきます。それでは本編です。
1. 人生の最高目的は幸福である。
前書きにも書いた通り、私は人生の目的は幸福だと仮定しました。仮定なので根拠は必要ないかもしれませんが、これから命題のようにこの文章を扱うため、いくつか根拠を示していきたいと思います。
- 幸福以外、人生の目的になり得ない。
先程、人生の目的としての例で、仕事、家族、趣味、恋愛など、現世的で人生の目的として妥当だと思われる事柄を列挙しました。しかしこれらは現世的であるが故に、人生の最高目的にはなり得ません。現世的であるということは、万人に共通で必ず訪れる死によってそれらは失われてしまいます。人生の最高目的であるためには、アリストテレスが語るとおり、何物の手段にもならないということが条件になります。言い換えるならば、仕事や家族、趣味や恋愛のような現世的幸福の種々は、人生の幸福のための手段である。こちらの方が妥当だと思われます。人生を生まれてから死ぬまでの全ての事柄だと考えるのであれば、その最高目的は現世的であってはならないのです。
死によって人生が終わってしまうのなら(転生や魂の不滅がないのだとしたら)、最高目的である幸福でさえも、意味のないものだと感じるかもしれません。現世を善く生きることで来世を肯定したり、最高目的を幸福ではなく、その逆説である「苦しみから逃れること」と考えた方が幸福になれそうな気がします。しかし、私はあくまで現世肯定と幸福自体を目的とすることを前提に考えを進めたいと思っています。
2. 幸福とはどういうことか。
さて、人生の最高目的を幸福だとしたところで、幸福とは何なのか?どういう状態か?という疑問が生まれます。
その疑問を考えていくために、過去人類が幸福をどのように捉えていたのか振り返ってみたいと思います。
最近の幸福論のトレンドといえば「功利主義」ですね。「最大多数の最大幸福」という言葉で有名です。哲学をよく知らないという方でもこの言葉は聞いたことがあるのではないでしょうか。
功利主義とは、イギリスの哲学者ベンサムが初めに唱えたものです。個人の幸福は快が得られ、苦痛が欠如したものだと考え、個々人の快の度合いと苦痛の度合いの総和を「最大幸福」として、「最大多数の最大幸福」の実現を社会の基盤にしようという考え方です。
功利主義に向けられる批判として、「自由論」で有名なイギリスの哲学者ジョン・スチュアート・ミルのものがよく知られています。ミルはベンサムの功利主義には質的な観点が抜けていると指摘し、快や苦痛を量として測るだけでなく、人によって快楽の感じ方、質が変わることに留意しなければならないと批判しました。
功利主義で語られる「幸福」は快楽と苦痛の総和であり、その言説は現世的な幸福にしか及んでいません。それでは人生の最高目的たる幸福の定義としては心許ない気がします。
これは思考実験ですが、人類の技術が進歩して脳に電極を刺し、微弱な電気信号を送ることで快楽を操ることができたら?功利主義的に考えれば、みんなこの機械に操られることが幸福だということになります。量的で現世的な快楽は最高目的としてはふさわしくないのかもしれません。
質的に幸福を考えるとき、キーワードとなる言葉は「能動性」だと私は考えています。同じ幸福であっても能動的であるか受動的であるかで、私たちの受け取り方は違っていると感じるからです。他者から恩恵を受けても、自ら掴んだ報酬と比すると霞んでしまうものです。
質的に良い幸福に欠点があるとすれば、より良い幸福を得たいと考えて満足しなくなるということです。これを克服するには他者と比較しないことが必要です。動機に私を据えて、私が結果を得る。他者をどうにかするのではなく、幸福を最高目的として私の幸福を探究する。
スイスの法学者カール・ヒルティは著書『幸福論』において次のように語っています。
幸福の第一の必要欠くべからざる条件は、倫理的世界秩序に対する正しい信仰である。
人生の幸福は、困難が少ない、あるいはまったくないということにあるのではなく、それらをすべてりっぱに克服することにあるのである。
「倫理的世界秩序に対する正しい信仰」とは、「人間の行動の規範となるような幸福観を持ち、その規範に従うことで世界の秩序が保たれるのだと信じること」だと私は解釈しました。
幸福は、単に快楽や苦痛の量によって計算されうるようなものではなく、また、私たちが主体的になって幸福を保とうとすることが必要なのです。
- 理性的幸福と感性的幸福
世界三大幸福論のひとつ、アランの『幸福論』では、非常に具体的でわかりやすい幸福観が著されています。
幸福の秘訣のひとつ、それは自分の不機嫌に対して無関心であることだと思う。
気分は判断力によるものではない。
幸せだから笑うのではない。笑うから幸せなのだ。
情念のほうが病気よりも耐えがたい。その理由はおそらくこうだ。情念は私たち自身の性格や思想から全面的に起因しているように見えるが、それとともに、どうにも打ち克つことのできない必然性のしるしを帯びているのである。
情念に対しては、私たちはなす術がない。というのは、私が愛するにせよ、憎むにせよ、必ずしも対象が目の前にある必要はないからだ。
アランは幸福を、私たちが不快に感じる身体的要因を排除することによって実現に近づき得るものだと捉えています。簡潔に言えば、ゴキゲンな生き方を志向することで、人生をポジティブにデザインしていこうということでしょうか。抽象的な理論の体系化を嫌ったというアラン。具体的であるが故に本質に肉薄した幸福論であると思います。
しかし、理性が求める幸福は完全性を伴ったものです。人生の最高目的としての幸福には普遍性がなければいけない。理性はどうしてもこのように考えるものです。感性的幸福と理性的幸福。その両立が達成されたとき、私は真に幸福を理解したことになるのだと信じています。
今回はここまでにします!
次回はアランの『幸福論』の考察から始めて、幸福についての理解を深めていきましょう!
ではまた!
よりよく生きる道を探し続けることが、最高の人生を生きることだ。
我々が皆自分の不幸を持ち寄って並べ、それを平等に分けようとしたら、ほとんどの人が今自分が受けている不幸の方がいいと言って立ち去るであろう。
陽だまりの地縛霊
ネットで名言を調べていると、次のような文章がゲーテの名言として紹介されていました。
自分自身を信じてみるだけでいい。
きっと、生きる道が見えてくる。
ひとを前向きにしてくれる良い言葉だと思い、出典を調べてみると、もともとの文章はゲーテの戯曲「ファウスト」でメフィストフェレスが発した台詞であることがわかりました。
Sobald du dir vertraust, sobald weißt du zu leben.
「自分を信じることができれば、すぐに生き方がわかるよ。」というような意味でしょうか。名言として紹介されていた訳も、間違いではないような気がします。
ちなみに「舞姫」などで有名な森鷗外はこれを「万事わたしにお任せになさると、直に調子が分かります。」
日本のドイツ文学者でエッセイストの池内紀は「自信がつけば態度も変わってくる。」と訳しています。
同じ文章をドイツ語から日本語へ訳すという作業だけでも、様々な違いが現れてくる。もちろん意訳や逐語訳であることの違いによる差異もありますが、文学作品の翻訳ということもあって、翻訳者の多様な解釈が伺えて興味深いですね。
こんにちは、泉楓です。今回は雑記です。特に書く内容は決まっていません。エッセイストになったような気持ちで、軽く書いていきます。
先日、動物園へ行く機会がありまして、動物を見て参りました。生物に興味が湧いていた時期なので大変楽しめました。
特に印象に残っているのはオランウータン。ハンモックに身を委ねた姿を直近で観察することができました。私の前に見ていた3歳ほどの女の子は「怖〜い」と泣きながら去って行きました。たしかに怖い(笑)。身体が大きい上に、人が近寄って来ても全く動じないその威風堂々たる態度。とても力が強いらしいので、私も隔てがなければ逃げ出しています。顔を近づけて観察していると、こちらに顔を向けてきました。目があった。好奇の目で見ている私をみると、彼は目を伏せて右手で顎を摩りました。
「人間みたい!!!」
さすが「orang(人)hutan(森)」と呼ばれるだけあるなぁ。私は満足してその場を去りました。
*後でわかりましたが、インドネシアの沿岸部に住む人々が奥地に住む人々のことを「オランウータン」と呼んでいたのをヨーロッパの人が勘違いしたそうです。現地には「orang〜」という名のUMAが複数いるらしい。
ダーウィンは「進化論」のなかで、「獲得形質の遺伝」を肯定的に語っていますが、現在の遺伝学では否定されているそうです。
「獲得形質の遺伝」とは、生物が後天的に獲得した身体的形式が遺伝することを指します。ダーウィンは「進化論」に対する反論として、「デザイン論」のような反論を想定していました。例えば機械仕掛けの時計が道端に落ちていたとして、それが自然発生的に存在していると考える人は少ないと思います。誰かがそれをデザインしたから時計はいまその場に存在している。誰しもそう考えるでしょう。昔から、生物も例外ではなく、超越的な知性によってデザインされたものだという考え方をする人はたくさんいました。モノを見るために目がある。音を聞くために耳がある。まさかそれらが自然に発生したものだとは考えない。ダーウィンは生存競争や自然淘汰のなかで、生物がより優れた形態を獲得し、それが親から子へ引き継がれていくことで「進化」は起こるのだと考え、それまでのデザイン論的な考え方を踏破したのでした。
ところが、現代では「エピジェネティクス」という言葉で知られている研究分野があります。「獲得形質の遺伝」は完全に否定されたわけではなく、生物の世界には後天的な性質を次の世代へ伝えているような例が散見されるそうです。
私たち人間は、常により良く在ろうとする生物だと思います。それゆえに憂鬱に陥ったり、絶望感を味わう人も少なくありません。カントは理性は完全性を求めるものとし、理性が際限なく因果を解明しようとすることを指摘しました。はたして人間は理性のみによって、この世界の認識を完全なものへと進化させることが可能なのでしょうか。
科学は確かに日々進歩しています。言い換えれば、人類は日々、世界への認識を深めているとも言えます。私たちは個人として、この認識についていくことが可能なのか。そもそも「正しい認識」は私たち個人にとって必要なのだろうか。私は最近よく「理性の限界」について考えを巡らせます。
人間の理性は「神」のように振る舞うこともあれば、驚くような悲劇を招く「悪魔」にもなり得ます。理性が鈍ると理解できないような人間の本能が剥き出しになることも、みなさんの経験則として理解されていると思います。
学問に対する嫌悪感を抱いている人もいるかもしれません。理知的な論理体系を前にして自分には関係がないと考える人もいるかもしれません。一般的に知識とは必要ならば取り入れて、必要がなくなればすぐに忘れてしまうもの。日常生活に則した知識ならば重宝されても、日常生活に関係しないような知識を持っていれば、変な目で見られてしまうことだってあるでしょう。
私は人間個人の幸福にとって、「正しい世界認識」は必要だと考えています。(幸福についての記事もいずれ書きたいですね。)ですから、いかなる知識、日常生活に全く関係がないように思える知識であっても、私個人の幸福にとって欠くことのできないピースなのです。
私は幼い頃から学問に興味関心を抱いてきましたが、勉強が好きではありませんでした。勉強は"しなければならない"もので、苦痛を伴うものだったからです。押し付けられればやる気を損ない、勉強から逃避するために娯楽に逃げたことが何度もあります。
人間の理性は幼い頃からその萌芽を見せているのです。あらゆるものに興味を抱き、見るもの全てが新鮮な驚きと輝きに満ちている。よく「大人は目から輝きを失っている」と言われたりしますが、それはあらゆる物事に「新鮮さ」を感じないからだと私は思っています。
「世界の認識」は本質的に多様性と無限性を包含していると私は考えます。ゆえに子どものような曇りのない目で世界を見ると輝いて見えるのです。大人になると世界を分かってしまった(認識し尽くした)ように勘違いしてしまう。つまり世界は輝きを失うのです。
生物を学ぶ中で、私が生物から受け取った示唆があります。宇宙及び地球、そして生命は全て見えない糸で繋がっているということ。その糸は複雑に絡み合い、複雑に絡み合ったなかに秩序を形成させる役割を生物が担っているということ。生物の能力とは自然の能力であり、我々生命を持つものは皆、固有の能力を持ち、それがかけがえのないものであること。
進化は差異から生まれます。周りと違う、個人として存在の不安を感じるということは、生物にとって重要なことなのです。孤独感は幻想に過ぎません。生命はひとりで成り立つものではないからです。私たちが取り除こうとしている不幸や苦痛でさえ、全く無意味で無価値だということは、ほぼあり得ないと言っても良いのだと思います。
先日、陽だまりかと思って近づいてみると金木犀が散った跡でした。半日後に再度その場所に行くと、風に散って陽だまりはなくなっていました。
私はそれを幽霊みたいだなと思いました。ある場所、ある時間に囚われて身動きが取れないでいる地縛霊。私は風に吹かれてちりぢりになった陽だまりに親しみを込めて手を合わせました。
本日はここまで!ご静聴、ありがとうございました〜😊
生物の進化について
小さい頃から水族館や動物園に行くのが大好きでした。こんにちは、泉楓です。今回は「生物の進化」がテーマということで、まずは身近な動物から注目してみたいと思います。
身近と言っても僕が話したいのは現代に生きている動物の話。「キリンの首はどうして長いか?」という問いはあまりにポピュラーですが、純粋な子どもの素朴な疑問の前で、私たち大人はその威厳を保つことができるでしょうか。
「高いところの植物の葉を食べるためだよ!」
……残念!これでは無垢な子どもに誤った認識を与えてしまうことになります。しかしながら、この答えは"目的論"的な捉え方と言え、長きにわたり人類の一般常識として働いていた考え方です。間違えてしまうのも仕方のないことかもしれません。
私たちの感覚としては、生物が何かの目的に従って存在していると考えることは自然な運びかと思います。実際、キリンの長い首は「高いところの植物の葉を食べること」に役立っているので、完全に誤解とも言い切れません。ただ少し本質とはズレているのです。
初めから「首の長いキリンがいた」のではありません。キリンの仲間の中から首の長い個体が生じ、悠久の時を経て現代の「キリン」という種には「首が長い」という特徴が残っている、というのが正しい認識だと思います。
「首が長い方が生存競争で有利だった」という言い方もありますが、私の認識としては正しくありません。前回の記事でも言及した「ミッシングリンク(失われた鎖)」の問題はここに表れてきます。ある集団(群)の中で生存競争があり、生き残ったものが進化を繋いでいく、という捉え方では説明のできない事実がたくさんあります。それに私の直感としては、「極端な特徴を持った生物が緩やかな変化を経てきた結果だ」とするのは少し無茶だという感じがします。
生物の進化については、未だに解らない事柄がたくさんあります。数ある仮説のなかで「生物の進化には『環境的要因』が大いに関わっているのではないか」という説が私としても納得のいくものだと思いました。
「私たちの身体はDNA(デオキシリボ核酸)によって遺伝情報を伝達している」という話は聞いたことがあるでしょう。そんな有名な二重らせん構造の中に、"生命の設計図"が記憶されています。驚くことにその"レシピ"の内容は既に知られている生物でほぼ共通しており、ヒトの遺伝子はその98%がチンパンジーと、85%がネズミと、60%がニワトリと、50%以上が多くの細菌と同じだと分かっているそうです。
「この数字は何を示しているか」というと、既知の生物は皆、共通の祖先を持っているという事実でしょう。実際、生物の身体を構成するアミノ酸は20種類だと言われていますが、天然のアミノ酸は約500種類ほど見つかっています。それほどまでに生物の身体には共通する要素が多いのです。
「進化」とはこの共通のなかに生じた僅かな差異が表出したものだと言えるでしょう。では、その差異はどのようにして生じたか。DNAがmRNA(メッセンジャーRNA)に塩基配列を「転写」し、それぞれの細胞で「コード」を読みとってタンパク質を合成するという過程で、「バグ」が発生するのかもしれない。また、放射線によってDNAが傷付けられ突然変異が起こったという説も一定の信憑性を持って語られているらしい……。
上の図は大陸の分裂、衝突を考慮した進化の模式図です。大陸の分裂の際には大地の裂け目から放射線が放出し、変異体を生む。大陸の衝突では、これまで交わることのなかった個体同士が交配し、遺伝子の差異を増幅する。それぞれ「茎進化」「冠進化」と呼ばれているらしく「ミッシングリンク」の問題を解決するための考え方のひとつとして、私は面白い考え方だなと思います。
- 最初の生命
前述した文章の中に「共通の祖先」という言葉が出てきました。細菌と私たち人類の間に「共通の祖先」がいるだなんて到底理解の及ばないことではありますが、次はそんな不思議な世界(なのに現実)について考えてみます。
遥か昔にビッグバンが起こり、その塵が固まって出来たというこの地球。彼が産まれたての頃(46億年前)には大陸がなく、雲に覆われている今とはだいぶ印象の違った惑星だったと言います。45億5000万年前には小惑星の衝突で月ができ、その後も地表には大量の微惑星が衝突していたと言われています。衝突によって、炭素、水素、酸素、窒素などの軽い元素が持ち込まれ、地球には大気と海洋が生まれました。
惑星の衝突跡にはクレーターが生まれ、そこに水が溜まり海洋となります。地球内部は常に高温で流動しており、特に高温の中心部マントルからは、たびたび上昇流が発生しました。マントル上昇流は地殻を押し上げ、地表のあちこちに火山を作ります。特に海洋地殻を押し上げたマントル上昇流は海水によって冷やされ、一帯に薄い玄武岩質の地殻を作りました。押し上げられた海洋地殻は滑るようにして移動し、より密度の低い大陸地殻にぶつかると下へ潜り込むように移動を続けます。このような地殻の動きを「プレートテクトニクス」と言います。
さて、我々の祖先である原始的生命体は、このような環境でどのように生まれたのか。
プレートテクトニクスによって、地表近くには「地殻の裂け目」のような空間が生じました。海洋近くのそのような空間には水が流れ込み、いわゆる「間欠泉」と呼ばれるものを形成します。このような環境下で放射性物質からエネルギーを得て化学反応を起こし、「生命構成単位」と呼ばれる「アミノ酸、リン酸、核酸塩基」が生み出されたと言われています。間欠泉によって水温が上昇し過ぎなかったこと、地表と地下で酸化・還元のサイクルが生まれたこと、、。様々な要素が重なって生命の素となる物質は生み出されました。
約41億年前、月の潮汐力は現在よりもはるかに大きく、地表の海岸には理想的な乾湿サイクルが実現されていたと言います。湿った状態と乾いた状態が繰り返される環境下で「生命構成単位」は重合反応を起こし、アミノ酸が複数結合した「オリゴペプチド(触媒活性をもつ、タンパク質様原始物質)」が発生しました。
オリゴペプチドがさらに複合し、より複雑な「原始 RNA」へ、原始RNAがさらに複合して、自己複製作用を持つ「リボザイム」として振る舞い始めました。
リボザイムが脂質の膜に取り込まれ、外界との境目を持つことで初めて「生物」と呼べる存在となります。この最も原始的な生命体は「原核生物」と呼ばれるようです。
- マクスウェルの悪魔とDNA
原核生物は絶滅と繁栄を繰り返す中で、選別された20種類のアミノ酸を自らの組織、エネルギーとして利用するようになったと言われます。この「20種類のアミノ酸を利用した原核生物」こそ、我々の「共通の祖先」だと言えるでしょう。
さて、このように生命の誕生について淡々と語ってきましたが、これは非常に稀な出来事だということは言わずもがなかと思います。未だ地球外に「生命体」と呼べる存在は発見されていません。
"生命体はどれだけ稀有な存在であるか"
それは著名な物理学者、エルヴィン・シュレディンガーも注目した事実なのです。彼は1943年2月、トリニティーカレッジ・ダブリンで行われた『生命とは何か』という講演でそのことを語っています。
彼はダーウィンの理論に対する疑問から「生命とは何か」という問題を提起し、生命を量子物理学の理論で考察してみる必要があると語りました。自然状態から生命が生まれるということは、謂わば「無秩序から秩序」を生み出すということに他ならないと考えたのです。
「無秩序から秩序を生み出す」というのは、現代物理学理論のうちの「熱力学第二法則」に背く出来事です。ならば生物の世界には、物理学が未だ到達していない新しい理論、新しい概念があるのではないか。「マクスウェルの悪魔」は生物の世界に息を潜めているのかもしれない!シュレディンガーはこのようなことを示唆しています。
現代において、数学や物理学によってあらゆる現象は理論化され、解き明かされていくのか、というように思っている方は少なくないのではないでしょうか。しかしまだまだ謎はたくさんあります。今回はその一例を「生物の進化」という大きな謎を孕んだテーマに沿って、皆さまに紹介できたかと思います。なんとなく息苦しいこの世の中、案外自由に息を吸える空白地帯は近くに存在しているのかもしれませんね。
今回はここまで!またね!